ライオネル・リッチーの歌には、初めて聴く人にも話しかけてくるような親しみがあります。
けれど、その親しみを届ける方法は、長い活動の間ずっと同じだったわけではありません。
バンドの中で自作曲を歌うようになり、一人で多彩な役を担い、やがて他の歌手に合わせて代表曲を組み直していく。
声の変遷を、年齢による違いだけでなく、誰と、誰に向けて、どんな人物として歌うようになったかという流れでたどります。
1977年の「Easy」。
コモドアーズの公式配信音源。
コモドアーズ時代|自分の書いた歌が、歌手としての居場所を作った
コモドアーズでリードを歌うようになった経緯について、リッチーは1981年の時点で、誰かに選ばれたのではなく、自分の書いた曲を歌い始めたと説明しています。
まず歌手としての型が決まり、そこへ曲を当てはめたのではありません。
書くことと歌うことが、一緒に自分の役割を広げていきました。
バンドのファンクと、彼の柔らかなバラードは、初めから同じものではありませんでした。
「Brick House」の原録音のリードはウォルター・オレンジです。
一方、仲間のウィリアム・キングも、バラードを書くリッチーの力を認めています。
グループ全体の迫力を、そのまま一人の声の変化として扱うと、この役割の違いが見えなくなります。
「Three Times a Lady」も、リッチーは最初、別の歌手に渡すつもりでした。
それをコモドアーズで歌うよう勧めたのが、プロデューサーのジェームズ・アンソニー・カーマイケルです。
本人には、こうした歌が自分たちのバンドに合うのかという迷いがありました。
外へ出そうとした歌を、自分の声で引き受けたことが、バンドの中に別の表情を育てたのです。
1978年のコモドアーズ版。
ベスト盤収録の短い音源版。
1981〜1983年|一人の歌手として、違う顔を見せる
転機になったのが、ケニー・ロジャースへの「Lady」の提供と、ダイアナ・ロスと歌った「Endless Love」です。
後者は、映画のための器楽曲という依頼から、歌詞のある曲、さらにデュエットへと発展しました。
ロスの相手役を問われたリッチーは、その歌をほかの人に渡すつもりはありませんでした。
作曲家として開いた扉の先で、今度は自分が歌う人物として前へ出ていきます。
1981年のダイアナ・ロスとの録音。
公式配信音源。
1982年にソロとしてアルバムを発表してからも、声の人物像は一種類に固定されませんでした。
本人は、映像の中で役を演じるより前から、レコードの中で声を演じ分けていたと説明しています。
「Easy」の癖を含んだ響き、「Truly」のフランク・シナトラを思わせる人物像、「All Night Long」のカリブの雰囲気。
親密なバラードから人々を誘う歌へ、同じ人の声が違う役を担うようになっていました。
「All Night Long」が加わったことで、静かな愛の歌だけがソロの看板ではなくなります。
1983年の『Can't Slow Down』には、その曲と「Hello」が同居しました。
呼びかける相手や場面が変われば、声に託す人物も変える。
一人になったことは、歌の表情を一つに絞ることではありませんでした。
1983年のミュージックビデオ版。
休止を挟んで|歌えることを取り戻し、新しい作り手を迎える
1980年代後半以降、リッチーは家族との時間にも向き合い、録音活動から距離を置きました。
父のそばにいたい時期に、新しいアルバムとツアーへ踏み出すことはできなかったと振り返っています。
次の成功を急ぐより、活動を続ける自分の生活を立て直す時間が必要だったのです。
この時期には、歌声を失う不安も経験しました。
2006年の取材では、声を取り戻すために複数回の手術を受け、その後、逆流の問題を指摘されて生活上の対応をした経緯が語られています。
歌は、苦しい出来事を受け止めるための手段でもありました。
その手段まで使えなくなる怖さを経験したことは、華やかな全盛期の後にある重要な背景です。
ただし、この経緯だけで、後年の声色や音域の違いまで説明することはできません。
1992年の『Back to Front』では、ベスト盤に新曲を加える形で録音へ戻っています。
その準備では、復帰を成功させようと考えすぎ、曲を書けなくなった時期もありました。
転機は、求めていたドラムの音が、自分たちのコモドアーズのレコードにあったと気づいたことです。
以前の自分にあった音楽を、今の制作の手掛かりとして取り戻す。
流行へ自分を作り替える前に、歌い続けてきた旋律へ信頼を戻す過程がありました。
2006年の『Coming Home』では、ジャーメイン・デュプリやダラス・オースティンらを制作に迎えました。
さらに2009年の『Just Go』でも、ニーヨやエイコンなど、新しい世代の作り手と組みます。
長年の代表曲に戻るだけでなく、今の音楽の中へ自分の歌を置く動きでした。

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リッチーは、若い作り手が持ってくる曲を自分が歌いたかったと説明しています。
作詞作曲からすべてを握る立場を離れ、まず歌手として相手の提案を受け取る。
長く自分で音楽を動かしてきた人にとって、それも新しい経験でした。
声の持ち味を守ることと、自分の予想どおりに作ることを、切り離して考えるようになっています。
2012年|代表曲を、共演者の声から作り直す
その姿勢が、過去の曲に向けられたのが『Tuskegee』です。
カントリーの歌手たちとの再録では、リッチーは相手に曲を自分向けに歌ってもらい、その歌に自分を合わせる方法を選びました。
最初から一緒に歌い続けると、相手が彼をまねてしまう。
そこで一度引き、相手独自の音への入り方を出してもらってから、自分のパートを調整したと話しています。
ダイアナ・ロスとの繊細な「Endless Love」に対し、シャナイア・トゥエインとの再録では、ギターの印象に合わせて力強さを加えました。
昔の歌唱を忠実に再現するのではなく、相手が変われば歌の表情も変える。
同じ題名の歌に、別の関係を作ったのです。

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慣れた歌も、この制作では注意を払い直す曲になりました。
ウィリー・ネルソンの「Easy」には、その人のために書かれたような自然さを感じたといいます。
自分の型を相手に押しつけず、新しい解釈を受け取る余地がありました。
ラスベガスの舞台から|歌を、聴き手が持っている記憶へ返す
2019年に発表されたラスベガスのライブ作品では、コモドアーズ時代の歌とソロの代表曲が、一つのステージに並びます。
「Three Times a Lady」「Easy」から「Hello」「All Night Long」、そして「We Are the World」へ。
スタジオで別々の時期に生まれた曲が、観客と過ごす一夜の流れとして歌い直されました。
録音作品ごとの変化を積み上げた後には、それらを同じ歌手の現在へつなぐ仕事があります。
『Hello From Las Vegas』(2019年)収録のライブ音源。
2024年には、自分がいなくてもどれだけの人が歌えるかを大切にしていると話しています。
舞台で言葉を忘れたときも、呼びかければ観客が自分より大きく歌ってくれる。
その関係は、歌を覚えてもらうことが、長い時間をかけて共演相手を増やすことでもあると教えてくれます。
ライオネル・リッチーの変遷は、柔らかな声が力強くなった、という一本道ではありません。
自作曲を担う声から、場面ごとに人物を演じる声へ。
さらに、相手の解釈や観客の記憶を受け取って、歌い慣れた曲にも新しい関係を作る声へ。
変わらない親しみの奥には、自分だけで歌を完成させようとしない変化があります。
曲の中での具体的な声の選び方は、ライオネル・リッチーの歌い方で見ていきます。
アイキャッチ:ライオネル・リッチー(1984年8月10日)/Photo: Penni Gladstone / Los Angeles Times/画像掲載元/CC BY 4.0
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