フィル・コリンズの歌声は、ジェネシスのドラマーが突然マイクを持った日から始まったわけではありません。
主役になる前から歌っていた柔らかな声があり、重い曲を担う経験を経て、よく知られる力強い歌唱へ育っていきました。
そして、大きな成功の後には、自宅で歌った声の自然さを選び直す時期も訪れます。
変わった声と、変わらず大切にしてきた歌の感触をたどります。
初期ジェネシス|先に知られていたのは、柔らかく歌う声だった
コリンズは1970年、ドラマーとしてジェネシスに加入しました。
ただ、仲間は当初から彼が歌えることを知っていました。
トニー・バンクスは、加入時のコリンズがギターを弾き、ジェイムス・テイラーを思わせる形でビートルズの曲を歌っていたと回想しています。
「For Absent Friends」や「More Fool Me」で歌を受け持った後も、バンドの主唱者はピーター・ガブリエルでした。
ガブリエルが去ったときに問われたのは、歌えるかどうかより、重い曲やステージ全体まで任せられるかということです。
穏やかな歌で知られた声に、別の役目が必要になりました。
1976年|「Squonk」が、主唱者への道を開く
『A Trick of the Tail』の制作時、バンクスたちは「Ripples」や「Mad Man Moon」のような柔らかな曲なら、コリンズが歌えると考えていました。
一方、「Squonk」では、別の候補者が曲のキーに合わず、うまくいきません。
そこでコリンズが試すと、重い曲も成立することが分かりました。
最初から後の完成された歌唱があった、とバンクスは説明していません。
当時の柔らかさを出発点に、強い曲にも声を届かせられると確かめた。
この一歩によって、アルバム全体を歌う役割へ広がったのです。
1976年の『A Trick of the Tail』収録音源。
録音で歌を重ねられることと、舞台で主唱者を務めることは別の課題でした。
コリンズは1976年の時点で、歌う間を別のドラマーに任せ、器楽部分では自分もドラムへ戻る構想を話しています。
歌手になるために、まず舞台での役割を組み替えたのです。
最初の公演を振り返ると、歌そのものより、観客の前で何を話し、どう立つかにも戸惑いがありました。
マイクスタンドを手放すまでにも時間がかかったといいます。
声の交代と、人前に立つ自信の獲得は、同時に終わったわけではありません。

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1981年|「In the Air Tonight」で、個人的な感情を声にする
ソロの出発点となる『Face Value』では、バンドの曲を担う声とは違う近さが生まれました。
コリンズは、この頃の個人的な歌を、連絡の取れない相手へ送る手紙のようなものだと説明しています。
別れや喪失を、自分の声で表す仕事になりました。
ただし、「In the Air Tonight」を一つの事件の再現として読むのは適切ではありません。
本人は、歌詞が即興から生まれたことを繰り返し話しています。
あらかじめ筋書きを決めて演じるより、曲の空気の中で出てきた言葉が残ったのです。
その声の迫力には、録音上の工夫も関わっています。
硬い子音の立ち上がりを残す処理によって、声の鋭さが際立ちました。
初期の柔らかな声と比べるときも、歌い手の変化と、作品として作られた音の両方を見る必要があります。
1983年|「Mama」で、声を演技として使う
ジェネシスの「Mama」では、不穏な笑い声も曲の一部になりました。
コリンズは、即興から生まれた曲の熱気を、言葉へ移そうとしたと話しています。
声で旋律を歌うだけでなく、場面の空気を演じる。
ソロの親密な歌と並行して、バンドではこうした表現も深めていました。
1984〜1985年|バラードとリズムの強い曲を、同じ声で担う
「Against All Odds」は、もともと『Face Value』の頃に作った未発表曲を、映画に合わせて仕上げたものでした。
コリンズはアリフ・マーディンに制作を任せ、後からドラムと歌を録音しています。
私的な曲の種が、映画のための大きなバラードへ形を変えた例です。
続く『No Jacket Required』では、「Sussudio」と「One More Night」の両方が生まれました。
制作を共にしたヒュー・パジャムは、コリンズが荒い質感で歌うと録音機器が強く反応することを覚え、それをロック色の強い曲で生かしていたと説明しています。
バラードにまで同じ強さを押しつけていたわけではありません。
柔らかな歌を重い曲にも広げた1970年代を経て、1980年代には、曲に応じて声の強さを選ぶ歌手になった。
人気曲が増えたことだけでなく、一人の声が引き受ける表情の幅に、変遷があります。

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1993年|『Both Sides』で、自宅で歌った感触を残す
『Both Sides』では、コリンズ自身が楽器を演奏し、自宅で録ったリードボーカルを使いました。
本人は、スタジオで人に囲まれて歌うより、デモの声のほうが心を感じられることに気づいていたと説明しています。
歌詞を用意し、自宅の上階で歌う方法を選んだのです。
整った演奏へ磨き続けることだけが、完成への道ではありませんでした。
最初に出た歌の感触を中心に置き、周りを作っていく。
大規模な作品を経験した後で、歌う場所と、残すテイクの基準を自分の側へ引き寄せたアルバムです。
1996年にパジャムと再び制作した際も、慣れたマイクは重要でした。
パジャムによれば、コリンズは聴こえてくる音に反応して歌うため、マイクを変えると本人の歌い方も変わります。
新しい機材へ替えることより、よい歌が生まれる音を選ぶ考え方が続いていました。
1999年|『ターザン』で、物語を包む声になる
『ターザン』では、コリンズの歌が登場人物の感情を外から支える役目を担います。
「Two Worlds」「Son of Man」「Strangers Like Me」などで、画面の人物が歌い始める形式とは違うつながりを作りました。
私生活から生まれたソロ曲を歌う場合とは、声を届ける相手も変わります。
さらに、英語だけでなくフランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語でも録音しました。
当時、本人は言語によって発音の難しさが違ったと話しています。
同じ声を各国版へ当てはめるためにも、言葉を歌える音へ整える作業が必要でした。
『ターザン』サウンドトラックのフィル・コリンズ単独歌唱版。
2010年|『Going Back』で、憧れた歌の中へ戻る
『Going Back』は、若い頃に親しんだソウルやモータウンの曲を歌うアルバムです。
コリンズの目的は、大胆な作り替えではなく、好きだった録音の雰囲気を再現することでした。
自分の成功作を更新する競争から離れ、歌いたかった曲を歌う選択です。
一方で、歌う本人まで昔の録音と同じにはできません。
制作では各曲のキーを検討し、自宅で録ったコリンズのボーカルを完成盤にも残しました。
修正が必要な箇所も、音を合わせるために自宅へ戻って録り直しています。
憧れの音を追うことと、自分が歌える条件を整えること。
この二つを両立させた点に、後年の歌手としての姿があります。
2021〜2022年|声の変化に合わせ、舞台の側を変える
ジェネシスの『The Last Domino?』ツアーでは、多くの曲のキーを下げ、二人のバックボーカルが歌を支えました。
2021年11月のローリー公演の「Afterglow」も、原曲のGからEへ移されています。
以前のように音を長く保ち、高いところまで歌い切ることが難しくなった声に合わせた変更でした。
バンクスは、「Tonight, Tonight, Tonight」のサビをバックボーカルが補うことが、助けになったと振り返っています。
「Fading Lights」も大きくキーを下げ、張り詰めた歌い方から離せるようにしました。
曲を低く移すだけでなく、どこを本人が歌い、どこを支えるかまで調整していたのです。
若い頃の声をそのまま再現する公演とは違います。
残された声の個性を中心に、キーや共演者の役割を変え、曲を届ける舞台でした。
2026年には、ロックの殿堂の式典で歌う依頼を断ったことも明かしています。
久しく歌っていない状態から舞台へ戻るには、準備とリハーサルが要るという判断でした。
フィル・コリンズの変遷は、声を強くしていく前半だけでは捉えきれません。
歌える曲を広げ、録音の中で個性を磨き、やがて自然に歌えた感触や、その時点の声に合う条件を選ぶ。
時期によって方法は変わっても、作品の中に自分の声をどう残すかを考え続けた歩みなのです。
曲ごとの発声と声の使い方は、フィル・コリンズの歌い方で詳しく扱っています。
アイキャッチ:1981年10月、ストラスブールで歌うフィル・コリンズ(写真:Philippe Roos)/画像掲載元/CC BY-SA 2.0
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