syudouさんの歌声は、磨き上げた美声を遠くまで響かせるタイプではありません。
誰かがすぐ隣で本音をこぼし、その言葉が途中から音楽になったように聞こえます。
この近さを作っているのは、声のかすれや鋭い語尾だけではありません。
本人が歌う曲では「この言葉を自分の口で言えるか」まで作曲の条件になり、声と歌詞が切り離せなくなっているからです。
つまり、syudouさんらしさの中心は上手に荒らした声ではありません。
言葉の責任を引き受ける話し声が、リズムと旋律を得た時に生まれる切迫感です。
自分で歌うと、書ける言葉まで変わる
もともとsyudouさんは、歌手になりたくて音楽を始めたわけではありません。
バンド活動よりも曲を作ることが好きで、一人で作品を完成させられるVOCALOIDを選びました。
初音ミクなどに歌わせる曲では、自分の身体や性別から離れた人物の言葉も書けます。
ところが自分で歌えば、同じ歌詞でも「syudou本人がそう言っている」と受け取られます。
実際、自唱曲を作るようになってからは、自分の考えや経験に近い題材が中心になりました。
暗い恋愛を扱う時には、自分の口で愛を語る照れまで制作を左右すると明かしています。
ここに、声の技術だけを見ても説明できない面白さがあります。
自分の声は単なる音色ではなく、歌詞に名前と顔を付けてしまう装置なのです。
話し声に近いのに、会話より強く残る
第三者の歌唱解説では、syudouさんの声について、乾いた出だし、短い語尾、日本語の子音を立てる歌い方などが指摘されています。
ただし、これを声帯の動きとして断定することはできません。
初心者にも分かりやすく言えば、一音を長く美しく見せるより、言葉の頭と終わりをはっきり置く歌い方です。
母音をたっぷり伸ばすのではなく、子音、息継ぎ、沈黙まで拍の一部にします。
そのため、メロディーが複雑でも「歌を聴いている」というより、勢いのある独白を聞いている感覚が残ります。
本人も別の歌手の表現を語る際、声を打楽器のように使う面白さへ注目していました。

『爆笑』では、怒りを笑いへ変えている
『爆笑』が発表されたのは、提供曲『うっせぇわ』の大ヒットによって、急に多くの視線を浴びた後でした。
注目を望んでいたはずなのに、知らない人から届く否定的な言葉は想像以上に重かったと本人は振り返っています。
そこで見つけた答えが、批判をお笑いで返す芸人の姿でした。
嫌な感情を消してきれいに歌うのではなく、悔しさを誇張し、笑えるほど大きな人物像へ変えて音楽で返しています。
声が芝居がかって聞こえるのも、この曲では欠点ではありません。
低く話す場面、言葉を畳みかける場面、強い調子へ跳ね上がる場面が、一人の中にいる複数の人格を見せます。
『爆笑』の迫力は、荒い声を出した結果ではなく、怒りをそのまま吐かずにキャラクターへ変換した結果です。
だから曲を知らない人にも、誰かが舞台の上で啖呵を切っている景色が伝わります。
荒さは主役ではなく、言葉の温度を上げる道具
syudouさんの曲では、がなりに近い強い音、息を混ぜた低い声、叫びに近い高音が短い間隔で現れます。
しかし、すべての言葉を同じ荒さで押しているわけではありません。
音楽的に整っていないと言われても、感情として格好よければ成立するという価値観を本人は持っています。
これは喉を痛めてでも歪ませるという意味ではなく、正しさより表現の必然性を先に考える姿勢です。
Adoさんの歌が一曲の中で大きく表情を変える理由にも近い部分があります。
ただしAdoさんの声色を作曲者が外側から設計する場合と、自分の体験を自分の声で引き受ける場合では、声に乗る人物像が違います。
『罪と蜜』は、一人では書きにくかった恋愛を歌えるようにした
Mori Calliopeさんとの『罪と蜜』では、syudouさんが以前から得意としてきた暗い恋愛の世界へ戻っています。
ところが、自分一人で歌う曲では、その題材を正面から扱いにくくなっていました。
二人の声があれば、歌詞は作者一人の告白ではなく、関係の中で交わされる言葉になります。
相手の声が自分の声を照らし返し、単独では照れが先に立つ表現にも居場所ができました。

この曲は、歌唱力を競うデュエットではありません。
低い声、速い言葉、二人の掛け合いが、危うい関係そのものを作っています。
声質の違いを消してそろえるのではなく、違う人物が同じ歌の中にいることを利用する。
そこにも、声を曲の登場人物として扱う作曲家らしい発想があります。
タイアップ曲でも、上手にまとめすぎない
『インザバックルーム』『笑うな!』『あいきるゆぅ』のようなタイアップ曲では、作品の物語へ合わせながらも、syudouさんの話し声らしさが消えません。
速い言葉や極端な言い回しが、映像作品の人物と本人の本音をつなぐ接点になります。
一方で『マイマイノリティ』では、個人的な居心地の悪さが、多くの人と歌える言葉へ変わりました。
独白の近さを保ったまま、観客の声が入る余白まで作れるようになっています。
須田景凪さんが声を曲の中の一つの楽器として選ぶ歌い方と比べると、違いも見えます。
須田景凪さんが危うい音色を配置して感情を見せるのに対し、syudouさんは話し手の人格を前へ出し、言葉を事件にします。
真似するなら、喉の荒さではなく「誰の言葉か」を決める
表面だけ似せようとすると、低い声で喉を鳴らしたり、語尾を乱暴に切ったりしがちです。
痛みや強いかすれが出る方法は、本人らしさへ近づく近道ではありません。
参考にしやすいのは、歌詞を無名の文章として読まず、誰が誰に言っているのかを決める順番です。
怒っているのか、笑ってごまかしているのか、強がっているのかが決まれば、言葉を置く速さや間の長さも変わります。
なとりさんも、けだるい声だけでなく曲の中へ声を配置することで人物像を作る歌手です。
なとりさんの低音と声の配置と聴き比べると、同じ話し声的な歌でも、脱力と攻撃性の使い方が異なると分かります。
まとめ
syudouさんの歌い方は、乾いた声や鋭い語尾だけでは説明できません。
自分で歌うことによって、歌詞を自分の身体で引き受ける必要が生まれ、その責任が話し声のような近さを作っています。
『爆笑』では批判への怒りを笑えるキャラクターへ変え、『罪と蜜』では二人の声を使って、一人では語りにくかった恋愛へ戻りました。
タイアップ曲でも、言葉の人物像を前へ出すため、きれいに歌いすぎません。
真似したいのは、喉を荒らす方法ではなく、誰のどんな本音を歌っているのか決めることです。
その答えが声の置き方まで変えるところに、syudouさんの歌が刺さる本当の理由があります。






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