TRF・YU-KIの歌声はどう変わった?未経験のデビューから30周年の現在まで

未経験のデビューから30周年までTRF・YU-KIの歌声の変遷をたどる記事のアイキャッチ YU-KI(TRF)

TRF・YU-KIさんの30年は、「昔は高音が出た、今は低くなった」という一本の線では語れません。
そもそも出発点に、歌手として準備を終えた時期がありませんでした。

歌を聴かれる前にボーカルへ指名され、ボイストレーニングを受けないまま録音が始まり、1990年代半ばには日本中が知る高音曲を連続で背負います。
2000年代にはライブで五人の関係を確かめ、20周年では過去曲を現在のステージへ戻し、30周年では若い頃に歌いこなせなかった曲まで自分で選び直しました。

変化したのは声の高さだけではありません。
「出すしかない声」が、「今の自分でどう歌うかを選べる声」になったことが、YU-KIさんの本当の変遷です。

1992年、歌を聴かれないままTRFのボーカルになった

YU-KIさんは音楽に無縁だったわけではありません。
幼少期にはピアノを学び、中学・高校では吹奏楽で木管、金管、打楽器を経験しました。
ただし、職業歌手になるための訓練を積み、オーディションで歌唱力を競っていた人ではありません。

転機はダンスコンテストでした。
小室哲哉さんから新ユニットの構想を聞かされ、そのボーカルを任されます。
驚くべきことに、その段階で歌はまだ聴かれていませんでした。

事務所側にも日本人アーティストを育てる蓄積がなく、デビュー前にボイストレーニングへ通わせる発想がありませんでした。
曲ができ、覚え、録音する。
英語版も含む大量の制作を、締切までに終わらせる毎日です。

この時期のYU-KIさんは、完成した歌手としてTRFへ加入したのではありません。
TRFの制作そのものが、歌手YU-KIを作る学校になりました。

ボーカル・DJ・ダンサーという編成で30年を歩んだTRF

1993年『EZ DO DANCE』で、全力の高音がグループの顔になった

1993年2月に『GOING 2 DANCE』でデビューし、6月の『EZ DO DANCE』が大きな転機になります。
この曲で聞こえる明るく鋭い声は、本人の得意音域へ慎重に合わせた結果ではありません。

当時のYU-KIさんはキーの合わせ方もよく分からず、小室さんが設定した高さを全力で歌ったところ、声が出ました。
その偶然を含んだ成功が、以後のTRFの基準になります。

高い声が出たから、次も高い曲が来る。
歌えると証明するたび、カタログ全体の難度が上がっていくような出発でした。
YU-KIさんの初期の歌声には、軽やかなダンス曲でありながら、後へ引けない切迫感があります。

1994〜1995年、五作連続ミリオンの裏で「一人のボーカル」と闘った

1994年の『survival dAnce ~no no cry more~』から、TRFは五作連続でミリオンセラーを記録します。
1995年にはCD総売上が1000万枚を超え、『Overnight Sensation ~時代はあなたに委ねてる~』で日本レコード大賞を受賞しました。

数字だけを見れば、迷いのない成功物語です。
しかしYU-KIさんは、グループの中でボーカルが一人しかいない恐ろしさと、人知れず闘っていたと振り返っています。

新曲が次々と届き、録音が終わらなければダンサーの振り付けも進みません。
『寒い夜だから…』や『survival dAnce』のようにイントロなしで始まる曲では、準備音を聞かずにキーをつかみ、一声目へ強いアタックをつける必要がありました。

初期のYU-KIさんの歌が鋭いのは、若さだけではありません。
自分の声で制作全体を止められないという責任が、歌い出しを前へ押していました。

1995年の『Overnight Sensation』では、速い言葉と高い旋律を保ちながら、明るさの中へ少し大人びた重さも入ります。
高音を当てるだけだった新人から、曲の主人公を演じるボーカルへ進み始めた時期です。

1996〜2000年代、ヒットの速度が落ちてから五人のTRFが見えた

1990年代後半以降、毎年のようにミリオンを重ねた時期は終わります。
YU-KIさんはソロ活動や舞台、声の仕事にも範囲を広げました。
一方でTRFは解散せず、五人の活動を続けます。

意外にも、メンバーが「この五人でTRFだ」と強く実感したのは、デビュー直後ではなく2000年代のa-nationでした。
代表曲へ客席が一斉に反応し、ボーカル、DJ、ダンサーという異例の編成が、時間を経ても一つのライブとして成立すると分かったのです。

YU-KIさんにとっても、歌声の役割が変わった時期でした。
最新ヒットを誰より早く届ける声から、聞く人の青春や生活を呼び戻す声へ変わります。
昔と同じ音色を再現するだけではなく、客席が持っている記憶まで受け取って歌う必要が生まれました。

2013年の20周年、過去曲は保存品ではなくライブの現在形になった

20周年には全国ツアーを行い、代表曲を現在のステージへ戻しました。
この時期の公式ライブ映像では、1990年代のミュージックビデオと同じ若さを再現するのではなく、観客との掛け合いを含めて曲を作るTRFが見えます。

ファンのライブ記録には、アルバム曲の言葉が以前より強く届いたことや、昔の曲が新しい場面でライブ映えした驚きが残されています。
ヒット期には制作の速さへ追われていたYU-KIさんが、曲の意味を客席とゆっくり共有できるようになったのです。

この変化は、単純な技術の上達とは少し違います。
若い頃には曲を成立させることで精いっぱいだった声が、曲と共に過ごした聞き手の時間まで扱える声へ広がりました。

2022年、声が低くなることを認めて「今歌える歌」へ向かった

年齢とともに女性の声は低くなる傾向があると医師から説明され、YU-KIさんはその変化を率直に受け止めています。
昔の高さへ無理に抗うより、今ある声を大切にし、現在歌える歌を格好つけずに歌うという考えです。

一方で、TRFの曲は高いキーと速いテンポが特徴です。
本人にとっても簡単な懐メロではなく、今なお慎重に扱う「一緒に育ってきた宝物」になっています。

ここで歌声の評価が割れることがあります。
昔と同じキーや透明感を基準にすれば、変化を衰えと感じる人もいるでしょう。
しかしYU-KIさん自身は、声の低下を隠して昔へ戻ろうとしているわけではありません。
年齢を重ねて深くなった歌詞の理解を、現在の声で表現する方向へ進んでいます。

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2023〜2024年、過去曲を「今なら歌える」と自分で選び直した

30周年作品では、YU-KIさん自身が過去曲を選び、六曲をリアレンジして歌い直しました。
選んだ基準は、売上や知名度の高さだけではありません。
若い頃にはまだ歌いこなせていないと感じていた曲を、今なら別の感情で成立させられると考えたのです。

『Happening Here』では、当時の自分が十分に扱えなかった感覚を認め、現在のトラックへ組み直しました。
『TRUTH』では歌詞の優しさを中心に、ストリングスの広がりまで具体的に伝えています。

歌うだけで精いっぱいだった新人は、30年後、どの曲をどんな音で蘇らせるかを決める制作側へ移りました。
声の厚みが増したことは、若い頃の代用品ではありません。
昔の曲に新しい意味を与える材料になっています。

30周年に過去曲を自分で選び直した現在のYU-KI

武道館直前、出なかったファルセットが本番で戻った

30周年を締めくくる日本武道館公演の4〜5日前、YU-KIさんの喉に突然不調が出ました。
声が割れ、ファルセットもうまく出ません。
本番まで歌わず、治療へ専念しました。

バラードではファルセットを使う予定でしたが、出ない場合は地声へ変更する案も用意します。
ところが本番では当初のプラン通りに歌うことができ、声も伸びました。

この出来事は、昔の声が奇跡的に完全復活したという話ではありません。
出ない可能性を受け入れ、休み、別案を持ち、客席の静かな空気の中で力まずに歌えたことが重要です。

デビュー時のYU-KIさんは、出るか分からない高音へ全力で飛び込むしかありませんでした。
30周年のYU-KIさんには、休む、待つ、地声とファルセットを選ぶ、自分を信じるという複数の方法があります。
声の変化以上に、声との付き合い方が大きく変わった瞬間です。

YU-KIの変遷は、高音を失わない物語ではない

YU-KIさんの30年は、同じ高音を守り続けた記録ではありません。
歌を聴かれずに抜てきされた未経験者が、高いキーを全力で出し、五作連続ミリオンの責任を一人で背負い、ライブを通して五人のTRFを理解していく物語です。

20周年以降、代表曲は過去の成功を再現するための曲ではなく、客席と現在を共有する曲になりました。
30周年には、昔うまく歌えなかったと感じた曲を自分で選び直し、厚みを増した今の声で再録音しています。

昔と現在を比べれば、高さや音色は変わっています。
しかし最も大きな変化は、「出すしかなかった声」が「どう歌うかを選べる声」になったことです。
YU-KIさんは過去の自分を保存するのではなく、変わった声でTRFを更新し続けています。

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