ルチアーノ・パヴァロッティの歌声の変遷|軽やかな声の成長と、歌う役を選び続けた歩み

1991年、デビュー30周年公演で歌うパヴァロッティ/Fondazione I Teatri シンガー
1991年、デビュー30周年公演で歌うパヴァロッティ/Fondazione I Teatri

パヴァロッティと聞くと、「誰も寝てはならぬ」の高音を思い浮かべる人は多いでしょう。
けれど、その声は、長い活動の間ずっと同じだったわけではありません。
若い頃の軽やかさから、より重い役への挑戦、異なる音楽家との共演へ。
声の変化と、歌うものを選ぶ考え方をたどると、名声の向こうに一人の歌手の歩みが見えてきます。

1960年代、軽い声を長く運べる歌へ

1954年、19歳のパヴァロッティは、アッリーゴ・ポーラのもとで本格的に歌を学び始めました。
その後はエットーレ・カンポガッリアーニにも師事し、1961年に『ラ・ボエーム』のロドルフォでオペラの舞台へ進みます。
生まれつきの声が、そのまま大劇場の歌になったのではありません。
学びを重ね、役を通して声を届ける仕事へ入っていったのです。

1965年には、ジョーン・サザーランドとの共演が大きな経験になりました。
指揮者のリチャード・ボニングも、彼が彼女の呼吸法を意識して学んだことを振り返っています。

録音技師ジェイムズ・ロックの記憶では、1960年代半ばの声は、まだ細身で軽いものでした。
それが1960年代末から1970年代初めには、豊かさを増していきます。
ロックが特に高く評価したのが、1972年にカラヤンと録音した『ラ・ボエーム』でした。

1961年、デビュー公演『ラ・ボエーム』でロドルフォを演じるパヴァロッティ/Fondazione I Teatri
1961年、デビュー公演『ラ・ボエーム』でロドルフォを演じるパヴァロッティ/Fondazione I Teatri。
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1972年、高音が世界に知られる

1972年、メトロポリタン歌劇場の『連隊の娘』で歌った九つの高いドは、彼の名声を決定づけました。
ただし、この公演で評価されたのは音の高さだけではありません。
トニオという人物の喜劇的な魅力を表し、楽しさのある演技で舞台を動かしたことも、大きな成功につながっています。
難しい音を出す場面が、その人物の生き生きとした姿として伝わったのです。

1968年の録音/リチャード・ボニング指揮。

同じ1972年には、メータ指揮の『トゥーランドット』も録音しました。

1970年代半ば以降、声の厚みと役の重さ

初期のパヴァロッティは、柔軟で甘さのある、軽い方向のテノールでした。
1970年代半ばには、『イル・トロヴァトーレ』のマンリーコや『アイーダ』のラダメスなど、より重い表現を求められる役へ進みます。
歌には暗い色や煙ったような質感も加わりましたが、旋律をしなやかに運ぶ持ち味は残っていました。
声を大きくすることだけで、役の幅を広げていったわけではないのです。

その慎重さがよく表れたのが、1991年の『オテロ』でした。
以前から勧められていたものの、本人は自分の声には重すぎると考え、長く引き受けずにいました。
ショルティとの四回の演奏会形式の公演に挑む際も、歌った後に問題があれば休むつもりだと話しています。

これは、重い役の歌手へ全面的に転じるという宣言ではありませんでした。
その後も『愛の妙薬』を歌う予定を持ち、作品ごとに、自分の声が受け持てるものを選んでいたのです。
挑戦した役の大きさだけでなく、続けて歌う役の軽さにも、彼の判断が表れています。

公演後のパヴァロッティは、『オテロ』を歌えたことを喜んでいました。
大きな作品を、ショルティと、その節目を祝う場で作る機会に参加したかったというのです。
声への慎重さと、音楽への強い好奇心。
その両方があったからこその挑戦でした。

1977〜1990年代、声を届ける相手が広がる

1977年には『ラ・ボエーム』のメトロポリタン歌劇場からのテレビ中継に出演し、1990年にはドミンゴ、カレーラスと三大テノールの舞台に立ちました。
劇場へ来る人に加え、テレビや大規模なコンサートで初めてオペラの声に触れる人も増えていきます。
歌う場所の変化は、彼の声がどんな人の日常へ入っていくかの変化でもありました。

1991年のハイド・パーク、1993年のセントラル・パークでは、野外の大勢の聴衆へ歌を届けました。
こうした公演では、親しまれたアリアに、より軽い歌やオーケストラの曲を組み合わせています。
一つの役を物語の最後まで演じる劇場とは違い、短い作品を重ねて客席と関わる構成でした。
声の魅力を知ってもらう入口が、オペラ全幕だけではなくなっていったのです。

1990年代には、他の分野の歌手との共演も広がります。
1995年の「Miss Sarajevo」は、U2のメンバーとブライアン・イーノによるパッセンジャーズの作品に、パヴァロッティが歌声で参加した曲です。
同年9月の「パヴァロッティ&フレンズ」で披露され、その後アルバムに収められました。
完成したオペラの名曲を別の会場で歌うだけでなく、新しい曲の一員として、その声を置くようになったのです。

この共演は、受け身で頼まれた仕事ではありませんでした。
ボノは、パヴァロッティが曲を書いてほしいと繰り返し連絡してきたことや、モデナの催しに呼ぶためダブリンまで訪ねてきたことを回想しています。
自分と違う世代、新しい歌の形への関心が、実際の働きかけになっていました。
大きな声が別の音楽へ招かれたのと同時に、本人も、その出会いを求めていたのです。

1999年、プレトリアでマンデラ大統領らと並ぶパヴァロッティ(中央)/公式アーカイブ
1999年、プレトリアでマンデラ大統領らと並ぶパヴァロッティ(中央)/公式アーカイブ。
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2003年、新しく書かれた歌を自分の解釈で

2003年の『Ti Adoro』では、新しく書かれた曲を歌っています。
本人が面白がったのは、先人による解釈がまだなく、自分の解釈で作品を作れることでした。
名作の長い歴史の中へ自分の声を加えてきた歌手が、今度は、その歌の最初の姿を作る側へ回ったのです。

アルバムでは「Neapolis」や「Il Gladiatore」、ルーチョ・ダッラの「Caruso」などを取り上げ、ギタリストのジェフ・ベックも迎えました。
イタリアの歌への愛着を残しながら、ロックやブルースの世界で活躍する奏者とも作品を作る。
共演者を広げる姿勢が、ここでも続いています。

ポップスへの参加は、いつも簡単だったわけではありません。
本人は、以前はポップスの録音に抵抗があったとも話しています。
それでも、この作品では新しい取り組みを進めました。
映像をフレッド・アステア風にする案も、レコード会社に従っただけでなく、自分から出したものでした。
歌だけでなく、どう見せるかにも、自分の遊び心を持ち込んでいたのです。

晩年、今の声に合う歌を選ぶ

晩年の本人は、声のすべてが以前のままとは考えていませんでした。
良くなるものがある一方で、失われるものもあり、『清教徒』や『ラ・ファヴォリータ』のように難しい作品は歌わなくなったと語っています。
歌手として積んだ経験と、その日に使える声は、いつも同じ方向へ進むわけではなかったのです。

2002年には、年間の出演を約四十回とし、その多くがコンサートやリサイタルだと説明していました。
自分の声に合うものを選び、いつ退くかも声に教えてもらう。
以前できたことを証明し続けるより、現在の声で音楽を成立させることを考えていました。

2004年3月、メトロポリタン歌劇場の『トスカ』が、最後のオペラ出演となりました。
この時期を追った制作現場の記録には、舞台への緊張や、評価が一様ではなかったことも残っています。
最後まで、名声だけで結果が保証される仕事ではありませんでした。
なお、これは歌手としてすべての公演を終えた日ではなく、その後もコンサート活動は続きます。

パヴァロッティの変遷には、声が豊かになる喜びも、歌える役が変わる現実もあります。
その中で、声に合う作品を選び、人と出会い、新しい歌へ向かい続けました。
一つの輝く高音から聴き始めた人も、時期の異なる録音へ進むと、その声を使う判断の変化まで味わえるのではないでしょうか。

呼吸や言葉、強弱の工夫は、パヴァロッティの歌い方で詳しく扱っています。

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