ジェフ・バックリィの歌声の変遷|『Grace』の後、なぜ偽名で小さな店へ戻ったのか

ジェフ・バックリィを描いたイラスト(richoz、2016年) シンガー
イラスト:richoz / CC BY 2.0

1996年末、アルバム『Grace』をバンドで作り、各国を回ったジェフ・バックリィが、別の名前で小さな店に現れました。
ギターを手に、新曲を一人で試すためです。
バンドを得た歌手は、なぜ再び独演の場所を求めたのでしょうか。

本人は後に、見知らぬ客の前で失敗し、危険を冒せる場所が恋しくなったと説明しています。
この言葉を手がかりに、ニューヨークのカフェSin-é、『Grace』のバンド、晩年の匿名公演をたどります。
変わったのは声の高さというより、歌をまだ決まっていないものとして扱える場所でした。

高校時代のジェフ・バックリィ(1984年)
高校時代のジェフ・バックリィ(1984年)。
写真:Loara High School / Public domain

カフェの歌は、次の一節を一人で決められた

1990年代初め、ジェフはニューヨークのSin-éでギターを弾きながら歌いました。
1993年のEP『Live at Sin-é』には、ヴァン・モリソンの曲「The Way Young Lovers Do」などを一人で演奏する姿が残っています。

その独演には、バンドを経験した後で自分の声を探し直す意味もありました。
1992年にゲイリー・ルーカスのバンドGods & Monstersを離れたジェフは、すぐ次のバンドを作る代わりに、一人で店を回って演奏する道を選びます。
本人は当時、自分の声の本質をまだ分かっていないと感じていた、と話しています。
小さな店は、すでにできあがった歌手を披露するだけの場所ではありませんでした。

当時は多くの人の曲を覚え、自分が歌で何をできるか探していました。
ただカバーを上手に再現したかったのではありません。
本人は初期の公演を、歌い手としての基礎を発見する学びの時間だったと振り返っています。

客がいつも静かに聴いてくれたわけでもありません。
話し声に苛立った時期を経て、ジェフは客席の音も演奏の一部として受け取るようになったと語りました。
次に何を弾き、何を歌うかを、目の前の部屋に応じて変える。
聴き手もその場の経験を作る側なのだと気づいたのです。
さらに、この近い距離でのやり取りを、将来のバンドでもできるようにしたいと話していました。

独演なら、曲をどこまで延ばすか、どの瞬間に次へ進むかを自分で決められます。
その場で歌の形を変える自由が、彼にとっての出発点でした。
一節の中で声と言葉をどう動かしたかは、ジェフ・バックリィの歌い方で詳しく見ています。

『Grace』では、歌の行き先を仲間と決めた

Sin-éを卒業してから、ようやくバンドが始まったわけではありません。
公式年譜では、EPが出た1993年のうちに『Grace』の録音が始まっています。
独演とバンドでの制作は並行して進み、アルバムは1994年に発売されました。

ベースのミック・グロンダール、ドラムのマット・ジョンソンと一緒に演奏し始めたのは、録音へ入るわずか四週間前でした。
長年完成させてきた編成を、そのままスタジオへ持ち込んだのではありません。
本人は、アルバムを作る間に本当のバンドになったと説明しています。
グロンダールと自宅で音を出したときの手応えや、ジョンソンの曲を理解する力が、仲間選びの決め手になっていました。

本人は『Grace』の制作について、バンドと演奏すると瞬間ごとの強弱や即興に向ける注意が何倍にも広がると話しています。
独演の自由がなくなったのではなく、自分一人では思いつかない次の動きが、ほかの演奏者との間で生まれるようになったのです。

『Grace』収録の「So Real」は、その関係をよく表しています。
ギタリストのマイケル・タイが弾いたフレーズをきっかけに作られた曲で、ジェフが完成させた歌にバンドが後から音を足したものではありません。
歌も曲作りのやり取りの中に置かれました。

タイの回想では、そのフレーズは以前ジェフに聞かせたまま、しばらく話題にならなかったものでした。
録音の時期になってジェフが思い出し、タイが弾く横でドラムをたたきながらサビの旋律を歌い始めます。
まだ歌詞はそろっていませんでした。
基本の演奏を録った後、ジェフはいったん散歩へ出て、約二時間後に戻ると、二回のテイクで歌を録ったといいます。

ここでは、歌の前に完成した設計図があったわけではありません。
友人のギターからリズムと旋律が生まれ、いったん一人になる時間を挟み、歌へまとまった。
Sin-éで次の一節を探していた自由は、バンドの中では、ほかの人が出した音を起点に歌を作る自由へ広がっていました。

1995年、ジェフは次作について、バンドで一緒に演奏した時間が長くなり、各人が曲作りにもっと深く関わるようになったと語りました。
『Grace』の方向を単純に繰り返すつもりはなかったのです。
だからこそ、その翌年に一人の舞台へ戻ったことは、バンドからの後退には見えません。

偽名の独演で取り戻したのは「失敗できる場所」

1996年12月、ジェフは「Father Demo」などの名前を使い、予告のない小さな公演を重ねました。
公式年譜は、新曲を観客の前で試すためのツアーだったと記しています。

なぜ名前を伏せたのか。
本人はファンへの手紙で、かつては自分を知らない客のいるカフェに現れ、音楽を作り、舞台から学ぶことができたと説明しました。
そこには、失敗や冒険を受け入れられる貴重な余地があった。
失ったその場を取り戻しているのだ、と。
『Grace』後の独演は、昔の曲を昔の形で歌う懐古ではなく、まだ形にならない歌を試す仕事場だったのです。

その手紙で大切なのは、店の広さだけでなく、自分を知らない相手の前で歌う条件を挙げていることです。
『Grace』の歌手だと分かっている客の前では、歌い始める前から期待が生まれます。
名前を伏せることには、その期待から離れ、一曲がその場でどう受け取られるかを確かめ直す意味があったと考えられます。
初期と同じ店の規模へ戻っても、今度は有名になった自分が学べる条件を、意識して作り直していました。

同じ1996年9月に録音した「Sky Blue Skin」は、新しい曲に取り組んでいた時期の資料です。
2019年公開の公式映像にはこのデモが使われていますが、12月の匿名公演を撮影した映像ではありません。
完成版の次作を示すものではなく、歌を試していた時期の録音として位置づけられます。

一人の試作は、次のバンド作品へ向かっていた

1997年にはメンフィスで新曲の自宅録音を続け、バンドに渡すための素材を作っていました。
公式年譜によれば、亡くなった日も、新作に向けてバンドとリハーサルを始める予定でした。
一人での試作と仲間との制作は、最後まで対立する選択肢ではなかったのです。

ただし、次作は完成しませんでした。
1998年に出た『Sketches for My Sweetheart the Drunk』は、本人が仕上げたアルバムではなく、制作途中の録音をまとめた作品です。
そこから完成していたはずの「新しい声」を言い当てることはできません。

母メアリー・ギバートは作品の注記で、手書きの歌詞原稿が、残された歌と一致しない場合もあると説明しています。
彼は制作中に試行と即興を重ねており、言葉の選び方もまだ動いていました。
その録音は、曲を変えながら歌う仕事を、最後まで続けていたことを伝えています。

Sin-éでは一人で曲を探し、『Grace』ではバンドと歌の行き先を作り、再び小さな店で未知の曲を試した。
ジェフが偽名で戻った理由は、バンドを捨てたからではありません。
歌が完成する前に、失敗できる場所を必要としていたからです。

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