ブラッド・デルプの歌声の変遷|Bostonを一人で歌った人が、仲間の声を選ぶまで

2003年の取材で、Bostonの新しいアルバムについて聞かれたブラッド・デルプは、自分が歌っていない曲をとくに気に入っていると答えました。
かつてデビュー作では、主旋律もコーラスも自分一人で録音した歌手です。
なぜ、ほかの人が歌う曲を喜んだのでしょう。

その答えは、声が高く出るかどうかだけでは見えてきません。
ブラッドは、もともと何人かの歌手と並んで歌っていました。
Bostonで一人の声を何層にも重ね、後には別のバンドで歌い、再びBostonの仲間へパートを渡しています。
録音と舞台で、誰が何を歌うか。
その選び方を年代順にたどります。

1970年代前半〜1976年|「一人の声」は、複数人で歌った経験から生まれた

Bostonに入る前、ブラッドはThe Beatlesの曲を歌うバンドで、三、四人いる歌手の一人でした。
1978年の取材では、その頃は自分がバンドの前面に立つより、仲間と一緒にハーモニーを歌うことに慣れていたと振り返っています。
トム・ショルツたちと始めた、より重いロックで歌手を前面に出す形は、本人にとって新しい仕事でした。

1976年のデビュー盤『Boston』では、その新しい役割が極端な形になります。
「More Than a Feeling」を含むリードとハーモニーを、ブラッドが一人で録音しました。
ただし、舞台で同時に何人分もの声を出せるわけではありません。
彼は後年、初期の仲間は歌を専門にしていなかったため、録音したコーラスをライブで再現するのは難しかったと話しています。
それでも歌の録音を流して補う方法は取らず、その場にいる人の声で演奏しました。

Bostonの厚い歌声は、一人で歌う才能だけで完結していません。
複数人で歌うことから始めたブラッドが、録音では一人で声を重ね、その音を今度は生身のバンドでどう届けるか考えることになったのです。
声の重ね方そのものは、ブラッド・デルプの歌い方で詳しく扱っています。

1978〜1986年|レコードの間が空いても、歌は続いた

『Boston』に続く『Don’t Look Back』は1978年に出ました。
ブラッドは発売前の取材で、デビュー作の歌には直したかった箇所が残ると話しています。
初めてのカリフォルニア録音では乾燥に苦労し、以前のデモの歌のほうが好きな曲もあったそうです。
後から伝説になった最初の録音も、本人には無傷の完成形ではありませんでした。

次のBoston盤『Third Stage』が出たのは1986年です。
「Amanda」を含むこのアルバムでもブラッドは歌いました。
二枚目から三枚目まで八年ほど空いていますが、その間に歌をやめていたわけではありません。
本人は2007年、バリー・グドローと別の企画に関わり、何かしら歌い続けていたと振り返っています。

発売年だけを並べて、その空白を「声が衰えた年月」と見なすことはできません。
Bostonの新譜がない間も、彼の歌の仕事には別の場がありました。

1991〜1995年|RTZで歌い、Bostonに二人のリードで戻る

その別の場の一つが、グドローらと組んだRTZです。
1991年のアルバム『Return to Zero』には「Until Your Love Comes Back Around」が収められました。
ブラッドによれば、グドローと集まって曲を作るうちにアルバム一枚分になり、ツアーも決まりました。
曲を書いたのはRTZの鍵盤奏者ブライアン・メイズです。
トムの曲を歌うBostonとは別の仲間の作品にも、ブラッドの歌が入りました。

RTZのツアーへ出る直前、トムからBostonの次作の録音を頼む連絡がありました。
ブラッドは予定を変えられず、トムはフラン・コスモを迎えて『Walk On』を完成させます。
1994年発売のこのアルバムに、ブラッドの歌は入っていません。
新しいリードの声を、彼の年齢による声の変化として比べることはできません。

ブラッドは翌1995年のBostonツアーには加わりました。
本人の説明では、「Don’t Look Back」などの旧曲でもフランと歌う箇所を分け、それ以後、バンドには二人のリード歌手がいる形になりました。
トムの曲は自分の音域の高いところを使うことが多く、途中で休めるのは助かる、と率直に話しています。

分担には、フランを支える意味もありました。
ブラッドの話では、フランも最初のアルバムの曲を一人で歌うことに不安があり、一緒にツアーへ出られることを喜んでいたそうです。
似た音域を持つ二人が交代すれば、片方だけに旧曲も新曲も集中しません。
復帰は、元の歌手が新しい歌手の席を奪い返す形にはならなかったのです。

フランも後年、ブラッドが戻ってから二人で歌ったと振り返りました。
1976年には一人で重ねた声を、1995年のステージでは仲間と分ける。
これはブラッドが旧曲を歌わなくなったという話ではなく、一公演を続けるための役割が変わったという話です。

1997〜2003年|自分以外の声があるBostonを歓迎する

二人でリードを分けることは、ライブだけの話でもありません。
1997年の新曲「Higher Power」の正規音源には、ブラッド、フラン、デイヴィッド・サイクスの三人がヴォーカルとして記されています。
誰がどの一節を歌ったかまではこのクレジットから分かりません。
それでも、初期盤でブラッドが全声部を担った時代とは、録音に名前を連ねる歌手が変わっています。

2002年の『Corporate America』では、さらにほかのメンバーが書いた曲も入りました。
ブラッドは翌年の取材で、自分が参加していない曲を好きだと述べ、キンバリー・ダーメの「With You」やアンソニー・コスモの曲を歓迎しています。
一方で、レコード会社が「ブラッドの歌う曲」をシングル候補として探すことは残念だとも話しました。

そもそも制作中、ブラッドはほかのメンバーの曲を全部聴きながら作業していたわけではありません。
「With You」やアンソニーの一部の曲を聴いたのは、アルバムがほぼ完成する頃だったといいます。
全体を把握していたのはトムでした。
自分が録音する場にいなかった曲にも、完成作の中で楽しみを見つけたのです。

自分の声を待つ人がいると知りながら、ほかの歌手や書き手の曲も聴いてほしいと望んでいました。
高音を分担したことだけを、単純に「声が出なくなったから」と説明すると、この選択が見えなくなります。

2000年代半ば〜2007年|高いパートを渡しながら、歌い続ける

2007年2月の取材で、ブラッドはBostonのリハーサルで、仲間にハーモニーの担当を割り振るのは昔から自分の仕事だと話しました。
近年はキンバリー・ダーメが高いハーモニーを歌うことも歓迎しています。
24歳の頃に録音した高いパートを、50代でも歌うことになるとは思っていなかった。
一方で、自分の声はよく保たれており、一部を人に任せられるので楽になった、と本人は説明しました。

Bostonの活動が空く間、彼はBeatlejuiceでThe Beatlesの曲を毎週のように歌っていました。
一晩に長時間歌うことが、声を保つ助けになったと本人は考えています。

このバンドは、友人の家で楽しんでいた演奏から始まりました。
最初の店での公演を告知したポスターには、メンバー名を出さず、The Beatlesの曲だけを演奏することを掲げています。
Bostonの歌手がいるから代表曲も歌うはずだ、と期待されるのを避けたかったためです。
自分の名声を前面に出すより、好きな曲を歌う場所を守ろうとしていました。

Beatlejuiceでは、ブラッドがポール・マッカートニー役だけを担当するわけでもありませんでした。
一曲の中でポールのパートからジョン・レノンのパートへ移ることもあり、声の響きを原曲へ近づけようとしていたといいます。
高い曲を得意な声で歌うことに加え、別の歌い手の言葉や表情を引き受ける経験も重ねていました。

小さい頃はポールの高い曲が歌いやすく、ジョンの低めの曲は難しかったが、後年はジョンの曲を歌うのが好きになったとも話しました。
何年も歌った「Anytime At All」が、近年ようやく気持ちまで合ったように感じる。
その変化は、声域の数字よりも、同じ歌を続けてきた時間を伝えます。

2005年7月、Beatlejuiceで歌うブラッド・デルプ
2005年7月、Beatlejuiceで歌うブラッド・デルプ。
写真:Non-Corporate News / CC BY 3.0

1976年の録音では、ブラッドが一人でBostonの声を作りました。
けれども彼の歩みは、そこから声を少しずつ失う一方向の線ではありません。
RTZで別の仲間の曲を歌い、Bostonではフランとリードを分け、ほかの人が歌う新曲を喜び、ダーメへ高いハーモニーを渡した。
どの場面でも、自分の声を曲の中でどう使うかを選んでいます。

その選択を支えたのは、Bostonの公演がない時期にも歌い続けたことでした。
一人で全声部を録ることを知る歌手が、仲間の歌を入れることで長く舞台に立った。
ブラッドの歌声の変遷には、声そのものと同じくらい、ほかの人と歌う場所の変化が刻まれています。

シンガー人気投票。投票ページはこちら

こちらの記事もおすすめ

コメント

タイトルとURLをコピーしました