2023年、ピンクは舞台が大きくなっても曲と言葉を中心に置くと話しました。
同じ年、彼女はスタジアムを巡りながら、ラジオ番組のスタジオでも「TRUSTFALL」を歌っています。
2010年のグラミー賞でも、ピンクは「Glitter in the Air」をピアノだけで歌い始め、その後に身体を宙へ浮かせました。
デビュー時はR&Bの歌手として売り出され、後には生のバンドを連れて小さなクラブを回り、さらに空中演技を含むスタジアム公演へ。
舞台が大きくなるほど、声は演出に埋もれてしまいそうです。
ピンクは何を変え、何を手放さなかったのでしょうか。
2000年――R&Bのデビュー作は、彼女のすべてではなかった
最初のソロアルバム『Can’t Take Me Home』は2000年に発表されました。
「There You Go」に代表されるR&B色の強い作品です。
ただ、当時の音楽だけを見て、ピンクが後からロックを覚えたと思うと順番を取り違えます。
彼女はデビュー以前からロックやパンクにも親しんでいました。
まずレコード会社が彼女を紹介した形と、本人が歌いたかった音楽に隔たりがあったのです。
本人も初作では周囲に遠慮していたと振り返っています。
最初から望むことをすべて押し通せた歌手だったわけではありません。
デビュー作の成功を否定する必要はありません。
そこには、後年の作品と異なる伴奏や曲作りの中で歌う、最初のピンクが残っています。
変わったのは、持っていた声を使って「どんな歌を自分のものとして届けるか」を、次作から強く選び始めたことでした。
2001年――リンダ・ペリーに電話して、自分の言葉を歌う
前作と同じ路線を求める周囲に対して、ピンクは別の音楽を作りたがりました。
そこで彼女が自ら電話した相手が、4 Non Blondesの元メンバーで作曲家のリンダ・ペリーです。
ただし、ペリーも最初からピンクを理解していたわけではありませんでした。
当時の映像を見てR&Bの歌手だと思い、自分はその音楽を作る人ではないのに、相手を間違えていないかと尋ねたそうです。
ピンクは、連絡したかったのはあなたで間違いない、と答えました。
売り出された姿からは見えなかった好みを、制作相手にも自分で伝える必要があったのです。
ペリーによれば、初めて会った夜、すでに書いていた「Get the Party Started」をピンクに聴かせ、その日のうちに歌を録りました。
二人の仕事は、2001年のアルバム『M!ssundaztood』へつながります。
依頼は、まず一緒に曲を書いたり、歌ったりしたいというものでした。
最初からアルバム一枚の作り方を決めたのではなく、一曲を録ると次の曲へ進むという共同作業が広がった、とペリーは振り返っています。
陽気な「Get the Party Started」だけでなく、「Don’t Let Me Get Me」では、外から求められるポップスター像と自分との食い違いを歌にしました。
ピンクが2002年の取材で振り返ったのは、ただジャンルを替えたいという話ではありません。
見た目やラジオ向けの型に合わせるより、自分が言いたいことを作品にしたかったのです。
本人によれば、完成へ向けて進めた音楽を会社へ送ると、従来のファンを捨てることになると反対されました。
その心配を受け入れて前作へ戻るか、まだ周囲の認めていない自分を歌うか。
二作目で歌う内容が変わった背景には、曲を選ぶその決断がありました。
この時期の転機は、音域が突然広がったという話ではありません。
どんな言葉を自分の声で歌うかを、レコード会社の用意した型だけに任せなくなったことです。
小さな会場で、生のバンドと歌う歌手になった
録音での選択と並行して、ステージでも変化が起きました。
マネジャーのロジャー・デイヴィスは、ピンクと出会ったころ、彼女がNSYNCの前座で用意された伴奏に合わせて歌っていたと振り返ります。
これは「口パクをしていた」という意味ではありません。
歌う背後の音を、録音に頼る公演の形だったということです。
デイヴィスは生のバンドを組み、彼女を各地のクラブへ送り出しました。
ピンク自身も、英国で劇場やアリーナへ進んだ後に米国ではまた小さなクラブに立つ、その行き来が腕を磨く機会になったと話しています。
会場はいつも順番どおりに大きくなったのではありません。
大規模な公演ができる地域と、近い距離の客席で経験を積む地域が、同じ時期に並んでいました。
2002年には、テレビ番組で歌を口だけ合わせるよう求められて拒んだ経験も語っていました。
生で歌うことは、後年の空中演技で急に始めた売り物ではなかったのです。
2003年のアルバム『Try This』に収めた「Trouble」は、翌年のグラミー賞で最優秀女性ロック・ボーカル・パフォーマンス賞を得ます。
一方で、レコード会社側の関係者は、米国ではこの作品の方向転換が受け入れられず、欧州のロックフェスティバルに活路を見いだしたと振り返っています。
ジャンルの看板を替えたから成功したのではなく、実際の客席で何度も歌い、バンドと一緒に立つ場所を広げていったのでしょう。
2006年にロンドンのウェンブリー・アリーナで収録された公演にも「Trouble」が残っています。
2003年の録音と同じ曲ですが、客席の前でバンドと進める歌には、レコード制作とは別の仕事があります。
小さな会場を積み重ねた先に、アリーナで演奏するピンクがいました。
2010年――空中へ上がる前に、歌を置いた
2008年の『Funhouse』に収録された「Glitter in the Air」を、ピンクは2010年のグラミー賞で歌いました。
冒頭はピアノと声。
そこからダンサーの動きが加わり、彼女自身も宙へ上がっていきます。
レコード会社の担当者は、この公演がピンクをライブ歌手として多くの人に印象づけた転機だったと振り返っています。
空中で歌ったという事実だけで、発声法や声量が以前より優れたと証明できるわけではありません。
むしろ注目したいのは、目を奪う仕掛けを使いながら、歌を聴く時間を最初に確保した構成です。
体を動かす見せ場と、一人の歌手の言葉を聴く場面を、同じ公演の中に置けるようになったのです。
空中演技を思いついた理由も、声の強さを証明したかったからとは限りません。
後年の本人によれば、シェールの公演で踊る人たちを見て、歌手もその楽しさに加われないかと思ったのがきっかけでした。
子どものころに体操をしていた経験があり、歌と一緒にできるか試したかったのです。
本人にとっては、歌を届ける舞台へ、以前から好きだった身体表現を持ち込む挑戦でした。
2014年から2023年――大きな舞台から、小さな編成にも戻る
その後もピンクは、演出を増やす一方で、歌を近くで聴かせる形を残しました。
2014年にはダラス・グリーンとYou+Meを結成し、ギターと二人の歌を中心にしたアルバム『rose ave.』を発表しています。
二人で歌う理由や声の重ね方は、ピンクの歌い方の記事で詳しく扱っています。
ここでは、アリーナの歌手になった後にも、少人数の編成を選べたことが大切です。
2017年の『Beautiful Trauma』で発表した「What About Us」は、関係の中にいる「私」だけでなく、「私たち」の問いを歌います。
デビュー後に自分の言葉を取り戻した歌手が、今度は大勢で共有できる問いも歌うようになりました。
その曲は2023年のツアーでも演奏され、公式ライブ盤に収められています。

写真:Andemaya(編集:LK) / CC BY-SA 4.0
2023年には、その舞台を続けることで、自分の仕事にいっそう真剣に向き合うようになったとも話しています。
本人にとって空中演技を含む公演は、スポーツのように努力を要するものでもあります。
楽しそうに宙を舞う見せ場と、それを続けるための準備は、切り離されていません。
バンドと小さな会場を回った時期から、舞台の規模も求める動きも変わりましたが、客席で何を届けるかを考える仕事は続いています。
R&Bのデビュー作からロックバンド、空中演技、アコースティックの時間へ。
ピンクは同じ声を一つの型に閉じ込めず、歌う曲と場所を増やしてきました。
ステージが大きくなった今も、彼女が公演に残そうとしているのは、観客がその人の声と言葉に出会う時間です。

こちらの記事もおすすめ






コメント