「私鉄沿線」を最初に歌ったころ、野口五郎は歌詞の男性がなぜ改札で人を待ち続けるのか分かりませんでした。
それが約40年後の再録では、自分も待ちたいと思ったといいます。
同じ言葉と旋律でも、歌う人の中で物語は変わります。
2025年には、かつて出演したミュージカル『レ・ミゼラブル』から、自分が演じた役とは違う人物の歌にも挑みました。
十代の歌謡曲、舞台で演じた青年、還暦を迎えて歌い直した代表曲。
その間、野口は誰の気持ちを、どこから歌うのかを選び直してきました。
声の高さだけでは見えない変遷をたどります。
1971年、演歌の席に座ってからポップスへ
1971年、15歳の野口は「博多みれん」で演歌歌手としてデビューしました。
本人は後年、当時はまず歌える場所を得ることが大切だったと振り返っています。
3か月後の「青いリンゴ」ではポップスへ移り、歌手として広く知られるようになりました。
この出発には、声そのものについてのつまずきもありました。
2026年に公開された本人の話によると、13歳で上京し、録音を控えてレッスンを受けたとき、変声期のため思うように声が出なかったといいます。
そこから演歌を経て、好きだったポップスを歌う機会を得た。
はじめから一つの歌い方が決まっていたのではありません。
十代のヒット曲には、まだ知らない別れがあった
1974年の「甘い生活」、翌年の「私鉄沿線」には、離れた相手を思う大人の物語があります。
「私鉄沿線」を出したとき、野口は19歳になる少し前でした。
1975年の歌に、歌詞の人物と同じ経験を重ねていたわけではありません。
2016年にこの曲を録り直した際、野口は当時の自分が社会や同棲という言葉も十分に知らず、改札で待つ男性の行動を理解できなかったと話しました。
切ない歌を歌っていても、歌詞の中の「待つ」は、まだ本人には不思議な行為だったのです。
一方、筒美京平と作ったシングルが続くなかでも、野口の関心は歌謡曲だけに収まりませんでした。
1976年の本人の会報には、米国での録音、自作のアルバム、ギター演奏をその年の新しい試みとして挙げています。
1978年のロサンゼルス録音盤『L.A.EXPRESS ロサンゼルス通信』には、野口が作曲した「バイオレンス」も収められました。
翌1979年には筒美の作曲・編曲による「最後の楽園」を『ラスト・ジョーク』で歌います。
後年の2024年には、シングルは時代に合わせて歌い、アルバムではやりたかったロックやR&Bに取り組めたと語りました。
若い歌手が与えられた物語を届けながら、自分で歌いたい音楽の場も広げていった時期です。
1987年、同じ役の気持ちを毎晩探す
1987年、日本初演の『レ・ミゼラブル』で野口はマリウスを演じました。
恋人や仲間を思い、戦いの後に生き残る青年です。
劇中の「カフェ・ソング」では、失った仲間と自分だけが残ったことに向き合います。
公演中のファンクラブ会報で、野口は舞台に立つたび、マリウスの気持ちを少しずつ変えてみるのが面白いと話しています。
ある晩はエポニーヌに手紙を託したことを悔やみ、別の晩は仲間を危険にさらした相手に怒りが向かう。
役の出来事は同じでも、どの思いを強く抱くかで、その日の歌へ入っていく道が変わるのです。
野口は一曲の感情を固定せず、人物の立場を探しながら舞台に立っていました。
2025年の取材では、演出家ジョン・ケアードとの出会いが自分を変えたとも振り返っています。
当時の会報では、舞台の空気へ早く入りたいので、なるべく早く劇場に着くとも話していました。
器用に演技を済ませる感覚ではなく、その世界に入ろうとしているため疲れるし、夜に「カフェ・ソング」の夢を見ることさえあったそうです。
歌詞を自分の経験に照らすだけでなく、舞台にいる間は人物の世界を生きようとしていたのです。
2002年は編曲を、2016年は歌詞の人物を考え直す
2002年の「私鉄沿線02」では、野口自身が編曲に加わり、代表曲を新しい形にしました。
歌うだけでなく、代表曲の伴奏も自分で見直したのです。
その歌詞の人物をどう受け止めるかについて、本人が具体的に語ったのは次の再録でした。
大きな手がかりが残るのは2016年です。
60歳のアルバム『The birth GORO anniversary』で「甘い生活」と「私鉄沿線」を新たに歌いました。
野口は歌詞への思いが変わった箇所を問われ、一部ではなく全体だと答えています。
若いころには不思議だった改札で待つ人物を、今は自分も待っていたいと思う。
駅も連絡手段も変わったのに、待つ時間の気持ちが分かるようになったのです。
その再録まで、歌うこと自体にも難しさがありました。
野口は2026年の取材で、20代半ばから60歳ごろまで、歌い始めの声が思うように出ないつらさを抱えていたと明かしています。
若いころには理解できなかった歌を、長く歌い続けた自分の声で録り直したのです。
2021年以降、歌は一人だけの視点ではなくなる
2021年には岩崎宏美と「好きだなんて言えなかった」を発表し、翌年には二人のアルバムとツアーへ進みました。
野口は2022年の取材で、二人の公演では、ソロの歌でも相手が後ろにいたり、歌い終わるとすぐ相手が出たりする構成を考えたと話しています。
一人で一人の心情を語る代表曲とは違い、相手が同じ場にいる歌を作る選択です。
アルバム『Eternal Voices』でも、互いの存在が選曲や録音に入っています。
岩崎が安全地帯の「ワインレッドの心」を歌い、野口は五輪真弓の「恋人よ」を歌う。
それぞれのソロ曲にも、相手が短く声を重ねました。
「恋人よ」には岩崎のコーラスが入り、野口も岩崎の曲に低い声やコーラスで参加しています。
自分が主役の歌と、相手を支える歌の両方を、一枚の中で引き受けていました。
この取材で野口は、CDに収めた歌はその曲との最初の出会いにすぎず、コンサートで重ねるうちに歌が熟していくとも語りました。
会場の空気が違えば、その日の歌も違う。
昔のレコードを忠実に繰り返すことだけを目標にしない考え方です。
1987年に同じ役の気持ちを毎晩探した経験と、2022年に公演ごとの歌を残したいという願いは、ここでつながります。
若いころのアルバム曲にも、後年の野口は戻っています。
2024年のセルフカバー集『GOROes by my self 2 ~CITY POP~』の冒頭は「最後の楽園」。
野口は、筒美との作品を次の世代へ伝えたいと語り、当時の編曲を考えた師と頭の中で対話しながら制作したと話しました。
十代のヒット曲だけでなく、自分がアルバムで試したかった音楽を、今度は現在の作品として作り直しています。
2024年から2025年、マリウスから別の人物の歌へ
2024年10月には、佐藤隆紀のオーケストラコンサートへゲスト出演しました。
かつて苦しみながら歌った「カフェ・ソング」に続き、ジャン・バルジャンの歌「彼を帰して」を、同役を演じる佐藤と歌っています。
初代マリウスだった自分が、今のバルジャン役と歌う。
野口はこの共演をいとおしい時間だったと振り返り、当時のブログにも、翌日の自分の公演にまで影響を感じたと記しました。
2025年にはフルオーケストラとの公演で、『レ・ミゼラブル』の「夢やぶれて」を自ら選びました。
かつて演じたマリウスの曲ではなく、ファンテーヌが歌う曲です。
本人は、予想できる曲よりも、今の自分が歌う姿をまだ想像できない曲へ挑みたかったと説明しています。
公演では、母性ではなく父性で歌ったらどうなるだろう、という問いも口にしました。
舞台で一人の青年の気持ちを毎晩探した歌手が、今度は別の人物の歌を自分の声でどう引き受けるかを考えました。
同年のNHK BSの収録では、ピアニストの娘・文音、バイオリニストの廣津留すみれと「夢やぶれて」を歌いました。
野口は共演を通して、演出家の指導を受けながら涙で歌えなくなった、初演当時の感覚を思い出したといいます。
新しい相手と歌うことが、昔の舞台の記憶をもう一度開いたのです。
この収録では、同じ三人で「私鉄沿線」も披露しました。
文音は歌とバイオリンを生かすために新しく編曲しました。
十代には理解できなかった歌を、今は次の世代が考えた音の中で歌っています。

写真:©NHK/出典:ENCOUNT。
2026年に70歳を迎えても、野口はまだ歌に先があると語っています。
「私鉄沿線」の原曲の高さや一曲を通して録る姿勢など、守り続ける選択については野口五郎の歌い方の記事で詳しく扱っています。
一方、この変遷で動いたのは、歌詞に出会う自分の年齢と、歌う人物との距離でした。
歌ったことのない人生に向き合い、知っているはずの一曲にも新しい意味を見つける。
その仕事は、代表曲を何度歌っても終わりません。







コメント