山川豊の歌声はどう変わった?「函館本線」から兄・鳥羽一郎との初デュエット、45周年へ

山川豊の歌声の変遷をたどる記事のアイキャッチ シンガー

山川豊さんは、兄の鳥羽一郎さんより先に歌手デビューしました。
のちに兄も大歌手となり、同じ演歌界で四十年以上を過ごします。

ところが、二人が兄弟として一緒に歌う作品を出したのは2024年です。
山川さんのデビューから43年もたっていました。

若い頃は兄より先に都会へ出て、自分だけの声を作った。
その声が病を経て兄へ戻り、2026年には自作曲「駅」で45周年を迎えます。
山川豊さんの変遷は、歌唱技術の変化だけでなく、兄との距離が一曲ずつ縮まる物語です。

1981年、レコード会社の社員が兄より先に歌手になった

山川さんはデビュー前、レコード会社で宣伝の仕事をしていました。
歌手のレコードを持って店を回る側から、自分の歌を売ってもらう側へ移ったことになります。

1981年、「函館本線」でデビューしました。
故郷の海を前面に出すのではなく、北へ向かう列車と別れを歌う曲です。

兄の鳥羽一郎さんは、弟のデビューに刺激を受け、船村徹さんの門をたたきます。
翌1982年に「兄弟船」でデビューし、漁師として生きた経験をそのまま歌手像へつなげました。

弟が先に道を開いたのに、兄の方が故郷らしい歌で強く注目される。
山川さんにとって、兄は家族であると同時に、同じ仕事で比較される最も近い相手になりました。

1986〜1990年、演歌らしさを削った声で紅白へ進んだ

デビュー前には五木ひろしさんの細かなこぶしを真似していましたが、指導によって余分な装飾を外されました。
山川さんは、豪快さより端正さが残る歌手になります。

1986年、「ときめきワルツ」でNHK紅白歌合戦へ初出場しました。
その後は「しぐれ川」のような本格演歌にも挑みます。

山川さん自身は、もともとこぶしが得意な歌手ではないと受け止めていました。
それでも誰かの型へ寄せ直さず、自分のまま歌うよう求められます。

若い頃の変化は、声を太くしたことより、足す技術から引く技術へ切り替えたことでした。
この選択が、兄の「海の演歌」と競合しない都会派の道を作ります。

函館本線を歌う山川豊

1998年、「アメリカ橋」が演歌の外まで声を運んだ

長い活動の中では、売上が落ち、以前より小さな会場へ戻った時期もありました。
華やかな舞台から後退したと見られても、各地で歌うことをやめませんでした。

転機になったのが「アメリカ橋」です。
演歌というよりニューミュージックに近い都会的な曲で、従来のファンだけでなく幅広い世代へ届きました。

録音前には、作曲家の平尾昌晃さんと二時間ほど話をしました。
緊張が抜けた後の歌唱は一回で認められたといいます。

若い頃は指導によって余計なこぶしを取られました。
ここでは会話によって余計な構えが取れています。
山川さんの代表曲は、何かを足した瞬間ではなく、力を抜いて元の声へ戻れた瞬間に生まれました。

2010年代、故郷と家族を歌う準備が声の中で進んだ

年齢を重ねると、若い頃には実感しにくかった結婚、家族、人生の歌が、自分の経験として理解できるようになったと山川さんは語っています。

2018年の「今日という日に感謝して」では、故郷や家族を思う言葉を、しみじみした旋律へそのまま乗せませんでした。
歌詞の予想を少し裏切る明るい流れを選び、重い内容を重いまま閉じ込めない作品にしています。

この頃には、兄への競争心も変化していました。
六十歳前後から、同じ歌手として張り合う気持ちより、兄弟として話せる時間が増えていきます。

歌の題材へ故郷が戻ってきても、若い頃に築いた都会派の輪郭は消えません。
思い出を強く泣き崩して歌わず、聞き手が自分の家族を重ねられる余白を残しました。

2023年、移籍第一弾で苦手だった本格演歌へ戻った

2023年、日本クラウン移籍第一弾として「人生苦労坂」を発表します。
作詞・作曲は北島三郎さんのペンネームである原譲二です。

北島さんは、山川さんの声を都会的で少しブルース調だと理解したうえで、あえて本格演歌を渡しました。
こぶしを無理に増やすのではなく、旋律に従い、言葉を明確にするよう求めます。

四十年以上かけて育てた個性を捨てて原点回帰したのではありません。
苦手だった演歌の型へ、現在の山川豊として入り直したのです。

若い頃なら「こぶしが足りない」と感じたかもしれない曲を、言葉の区切りと経験の重さで成立させる。
移籍は、昔の弱点が別の表現へ変わったことを確認する機会になりました。

2024年、病から戻った最初の新曲が「兄貴」だった

2024年1月、山川さんは肺がんを公表し、治療に専念しました。
同年4月には舞台へ復帰し、歌手活動を再開します。

その年の秋に発表した新曲が「兄貴」です。
歌は約八年前に作られており、鳥羽一郎さんとの関係をもとにしています。

若い頃、兄弟は互いを強く意識していました。
弟のデビューが兄の歌手人生を動かし、兄の成功は弟にとって身近すぎる比較対象になります。

病気を経た後の「兄貴」は、その競争をなかったことにしません。
長く離れていたからこそ言える感謝を、山川さんらしい抑えた声で置いています。

初の兄弟デュエットを歌う鳥羽一郎と山川豊

2024年末、初の兄弟デュエットで歌い方まで歩み寄った

同年12月、鳥羽一郎さんとの初の兄弟デュエット「俺たちの子守唄」を発売しました。
冒頭に置いた公式動画は、この曲の映像です。

一緒に歌えば自然に合うと思われそうですが、録音では意外な難しさがありました。
二人が慣れてきた世代のデュエットとは違い、言葉を細かく受け渡す掛け合いが多かったからです。

兄の荒々しく前へ出る声と、弟の整えて運ぶ声は、同じ旋律を重ねるだけでは溶けません。
互いの間へ入り、次の言葉を受け取ることで、違いを消さない兄弟歌になりました。

鳥羽一郎さんの歌声の変遷から見ると、このデュエットは兄が優しい歌へ広げてきた歩みの先にもあります。
二人の歴史が、同じ場所へ別々の道から到着した作品です。

2026年、自分で作った「駅」が45年を一つのホームにした

2026年、デビュー45周年記念曲「駅」を発表しました。
作曲名義は「やまかわ豊」です。

デビュー曲は「函館本線」で、45周年曲は「駅」。
偶然以上にきれいな対応です。
若い歌手は列車に乗って故郷を離れ、現在の歌手は人が出会い、別れ、再び戻る場所そのものを歌いました。

治療を続ける中では、息切れのため休憩が必要になることも率直に明かしています。
一方で、声への影響は感じていないと語り、周年公演でも歌を届けています。

体の変化を隠して全盛期の姿を演じるのではなく、休みながら現在の声を使う。
「駅」は、過去の列車を再現する曲ではなく、これまでの歌を今の場所で受け止める曲になりました。

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兄より先に出た弟は、最後に兄と同じ歌へ帰ってきた

山川豊さんは、兄より先に歌手になりました。
五木ひろしさんのこぶしを外し、鳥羽一郎さんの海の演歌とも違う、端正で都会的な声を作ります。

「アメリカ橋」はその声を演歌の外へ運び、「人生苦労坂」は苦手だった本格演歌へ現在の言葉で入り直す作品になりました。
そして病から戻った2024年、長い競争の先で「兄貴」と初の兄弟デュエットへたどり着きます。

45周年の「駅」は、出発する若者の歌ではありません。
離れた人も、競った兄弟も、過去の自分も、同じホームへ迎える歌です。

山川さんの歌声は、都会派の端正さを失わずに、年齢とともに入れられる人を増やしました。
現在の歌い方がなぜ派手なこぶしに頼らないのかは、山川豊さんの歌い方・発声で詳しく解説しています。

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