森口博子は、歌の盛り上がるところで、できるだけ地声を張って歌いたくなるそうです。
ところが、制作の現場では「そこは張らないほうがいい」と止められることがあります。
歌えるのに、なぜ抑えるのか。
そのやり取りに、伸びやかな声だけでは説明しきれない、森口の歌の面白さがあります。
2024年の『ANISON COVERS 2』で歌った「想い出がいっぱい」は、その一例です。
本人はサビを地声で歌おうとしましたが、音楽プロデューサーの時乗浩一郎は、裏声のファルセットを勧めました。
時乗が魅力と考えたのは、力強さに加えて、裏声にもある聴き心地のよさでした。
強い声をどこまで出せるかより、その曲の気持ちを、どの声なら伝えられるか。
柔らかなカバーから、勢いのあるジャズ、親しい人が書いたバラードまでをたどると、森口が歌の中で選んでいるものが見えてきます。
「想い出がいっぱい」を、大人になった自分から歌う
「想い出がいっぱい」は、青春のまっただ中にいる人にも、そこから遠く離れた人にも届く曲です。
森口はこのカバーを、少女だった自分を、今の自分が見つめるような気持ちで歌ったと話しています。
学生時代には永遠のように思えた時間も、大人になると限りがあると分かる。
その変化が、歌詞の受け取り方を変えました。
ここで、サビを強く歌い切ることだけを目標にすると、振り返る人のまなざしより、声の勢いが前に出るかもしれません。
裏声を選ぶ話は、高い音が出るか出ないかの話ではなかったのです。
同じ言葉を、どんな気持ちの人が歌っているように聴かせたいのか。
そのために声の強さを選ぶ、と考えると分かりやすくなります。
森口の歌に力強いイメージを持っているほど、こうした柔らかい表現は新鮮でしょう。
しかも、本人が最初から迷わず選んだ歌い方ではありません。
自分では気持ちよく声を出せる場所で、周りの人が見つけた魅力を試してみる。
長く歌ってきた人の録音にも、そんな発見が残っています。
「翔べ!ガンダム」では、低い声も楽しめる
柔らかく歌うだけが、森口のカバーの方向ではありません。
2022年の『GUNDAM SONG COVERS 3』では、「翔べ!ガンダム」を管楽器のにぎやかなビッグバンドで歌いました。
原曲は、最初の『機動戦士ガンダム』を象徴する、勇ましい主題歌です。
それをジャズの華やかな演奏で聴かせたいという案は、森口自身から出たものでした。
企画会議では、頭の中で鳴っていた音を、言葉のない歌でスタッフへ伝えたそうです。
ただ「おしゃれなアレンジにしたい」と注文したのではなく、どんな音楽にしたいかを、自分の声で示していたわけです。
歌い手が伴奏の完成を待つだけではないところにも、この作品への意欲を感じます。
公開後、森口のもとには、普段あまり聴かない低い声に驚いたという感想が届きました。
高く澄んだ声を期待して聴き始めた人が、低めの声のかっこよさを見つける。
「想い出がいっぱい」で柔らかさを味わったあとなら、同じ歌手が別の方向へ思いきり振り切る楽しさがあります。
もっとも、曲の形が大きく変われば、元の伴奏のほうが好きだという人もいるでしょう。
森口のカバーは、原曲の代わりに一つの正解を示すものというより、よく知る曲の別の表情を聴く楽しみに向いています。
原曲が持っていた勇ましさを覚えたまま、この華やかな演奏と声に出会えるところが面白いのです。

一緒に録る演奏が、歌の勢いを変える
森口は一人で歌い方を決め、そのとおりに録音するだけではありません。
2020年の「サイレント・ヴォイス」では、ヴァイオリニストの寺井尚子と同時に録音しました。
寺井の演奏をその場で受けながら歌い、森口の歌が熱を帯びると、演奏もまた変わっていったそうです。
完成した伴奏に歌を重ねる場合、歌う時に聴く音はすでに決まっています。
同時録音では、自分が歌ったことに相手が応じ、その音を受けて次の声が変わることがあります。
森口にとっては、寺井から届く音が、歌の緊張感や情熱を引き出す相手になっていました。
この録音は、何度も繰り返した末の完成ではなく、2テイクほどで決まったといいます。
森口は、こうした緊張感のある演奏を何度も繰り返せるわけではない、とも話しています。
歌も演奏も、その場で互いの音を聴きながら集中していたのでした。
声の大きさを抑える曲もあれば、目の前の演奏に刺激されて熱くなる曲もある。
「森口博子はいつもこう歌う」と一つに決められない理由が、共演者との録音にもあります。
こうした歌への向き合い方が育った経緯や、昔の曲をどのように歌い直してきたかは、森口博子の歌声の変遷でもたどれます。
広瀬香美が求めたのは、高音よりも言葉だった
強く歌える声を、親しい作り手があえて前面に出さないこともあります。
2025年の『Your Flower ~歌の花束を~』で、広瀬香美が書いた「forever and ever and ever and ever…….」がそうです。
高い声が次々に出てくる曲を想像したくなる組み合わせですが、広瀬が大切にしたのは、森口がメッセージを伝えることでした。
声を張る場面は、最後のほうに少し出てくる作りになっています。
歌は、ため息や深呼吸から始まります。
広瀬は、歌だけでなく芝居やミュージカルも経験してきた森口なら、演じるような始まりが似合うと考えたそうです。
長い付き合いの中で知っている森口を、一曲の表現へ結びつけたのでした。
だから、ここでの静かな歌い出しは、盛り上がりを待つだけの時間ではありません。
声を張る前から、歌う人の気持ちを聴いてもらうための場面です。
最後に強い声が現れるとしても、その前にどんな言葉を、どんな調子で伝えたかによって、響き方は変わってきます。

森口の歌の魅力は、力強い声と柔らかい声を両方持っている、という説明だけでは終わりません。
「想い出がいっぱい」では、過ぎた時間を見つめる歌に、周りの助言で選んだ裏声が加わる。
「サイレント・ヴォイス」では、共演者の演奏に応じて歌の熱が増していく。
広瀬とのバラードでは、強く張る場面を絞り、言葉から聴き手へ近づいていく。
よく出る声を毎回いちばん目立たせるのではなく、曲の中で必要な場所へ使う。
その選択を知ると、森口博子の歌は、サビの高音を待つだけでなく、そこへ至る小さな声まで聴きたくなります。






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