太田裕美の声には、久しぶりに触れてもすぐ本人だと分かる親しさがあります。
けれど本人は、子育てを中心とする生活からライブへ戻ったとき、以前より声が落ち着いたと感じていました。
聴く側に残る印象と、歌う側が感じる変化は、必ずしも同じではありません。
「木綿のハンカチーフ」の先へ行きたいと思った若い頃から、代表曲を初めてセルフカバーした45周年へ。
太田の歩みをたどると、声の明るさを保ちながら、その声で何を表現するかを探し続けてきたことが見えてきます。
1974〜75年、弾き語りの親密さから二人の物語へ
1974年のデビュー曲は「雨だれ」でした。
ピアノを弾いて歌う姿には、フォークと歌謡曲の両方につながる雰囲気がありました。
その後の「木綿のハンカチーフ」や「赤いハイヒール」へ続く前から、声と言葉を近くに感じさせる歌手として出発していたのです。
初期のディレクター、白川隆三は、「雨だれ」の地声から裏声へ移る部分に曲の頂点があると説明しています。
声をただ大きくするのではなく、声の質が変わる瞬間を曲の魅力にする。
筒美京平は、最初の一曲から太田の声を生かす旋律を書いていました。
翌1975年の「木綿のハンカチーフ」では、同じ一人の声が、離れて暮らす男女の両方を担います。
物語が進んでも、聴き手は二人のやり取りを一曲として受け取れる。
可憐な声の印象に、複数の人物を運ぶ役割が加わりました。
1977年「九月の雨」、歌い上げる曲への挑戦
「九月の雨」は、1977年のアルバム『こけてぃっしゆ』でも異質な曲だったと太田は振り返っています。
高い音へ向かって劇的に歌い上げる形は、それまでとは違う挑戦でした。
ただ、アルバム録音時には調子がよかった声を、その後に傷めてしまった。
シングル発売後のテレビでは、高い声が出ない状態で歌っていたと本人は説明しています。
録音に残った表現の広がりと、その後の実演での苦しさは、分けて捉えたいところです。
1980年代、代表曲の外へ出て、自作の歌へ
「木綿のハンカチーフ」は大きな財産になった一方、新曲を出しても以前のヒットを褒められることに、太田は葛藤していました。
もっと先の世界へ進みたい。
1982年には活動を休み、ニューヨークで暮らす道を選びます。
語学学校へ通い、自分で生活を組み立てた約8か月。
本人がこの滞在を大きな転機として語るのは、音楽以外の時間も自分で選んで過ごした経験があったからです。
歌手としての毎日からいったん離れ、暮らす場所も行動も自分で決める。
帰国後の作品を考えるうえでも、その生活の変化は背景になります。
本人が財産として挙げたのは、異なる街で一人で暮らし、自立を実感したことでした。
1983年の「満月の夜 君んちへ行ったよ」は、自ら作曲した作品です。
ニューウェーヴの感触を持つサウンドの中で、太田の声は新しい位置を得ました。
この曲を愛聴する音楽家の相澤瞬は、以前の技巧的な印象から、よりまっすぐな歌へ移ったと評しています。
声そのものを別人のように変えるのでなく、飾りを引いた声が違う音楽にもなじむ。
そんな広がりを読み取れる時期です。
1990年代の活動再開、落ち着いた声で歌う感覚を取り戻す
結婚と出産のあと、仕事を絞った時期にも、太田は短時間の録音などを続けていました。
子育てが一段落して戻ったライブは、ピアノの弾き語り。
聴きに来てくれる人がいるか心配する本人を、多くの観客が迎えました。
この再開時に、声が以前より落ち着いたという実感があったのです。
当時は声量や音域の広がりも評判になりましたが、本人の言葉でまず確かめられるのは、休めたことへの肯定的な感覚です。
年齢を重ねた声を、失ったものだけで説明することはできません。
一方、久しぶりの舞台では、思うように声をコントロールできないと感じたこともあったといいます。
歌ううちに慣れていったという経験には、休むことで楽になった部分と、実演の感覚を取り戻す過程の両方があります。
休養を挟んで一気に完成した、という単純な変化ではありませんでした。

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2000年代、透明な声を新しい音楽の中へ置く
2004年にはAyuoとの『Red Moon』を発表しました。
ギターを軸に、フォークの親しみやサイケデリックな響きが交差する作品です。
透明な声は、こうした音の中でも評価されました。
代表曲のイメージだけを再現するのでなく、異なる編成や響きの中へ同じ声を置いてみる。
太田の歌が持つ可能性を、別の角度から示した録音でした。
日本語を中心に、異なる土地や時代の言葉に由来する歌を、声とギターのやり取りで形にしていく。
ここでは、歌謡曲の華やかな伴奏とは違う環境で、声の透明さが作品の中心を担っています。
2006年の『始まりは“まごころ”だった。』には、ハナレグミの永積タカシやYO-KINGらが参加します。
新しい曲を書いた音楽家たちが、透明感とともに、大人びた表情も聴き取っていた作品です。
2014年、よく知る作曲家の歌を初めて歌う
40周年の『tutumikko』では、筒美京平が他の歌手へ書いた曲に挑戦しました。
太田は、親しみのある曲を歌うカバーでも、自分にとっては初めての新曲のように取り組んだと話しています。
かつて自分の声を生かしてくれた作曲家の世界へ、今度は他の歌い手の作品を通して入り直したのです。
2019年、代表曲を新録し、自作曲では力強く歌う
45周年の『ヒロミ☆デラックス』には、高嶋ちさ子ピアノクインテットと新録した「木綿のハンカチーフ」「さらばシベリア鉄道」が入りました。
太田は、長く歌ってきた曲を、新曲のような新鮮さで歌えたと振り返っています。
自作曲「桜月夜」は、萩田光雄が編曲したロッカブルース。
本人も積極的に攻めるつもりで作ったと語る、力強い歌です。
2020年代、声を届ける舞台の価値を見つめ直す
2021年7月のビルボード大阪では、代表曲に加え、アンコールで「虹の彼方に」をジャズバンドと歌いました。
2019年から治療を続けながら舞台に立っていた太田にとって、歌える場は一段と大切なものになっていました。
歌い続けたいという言葉と、代表曲以外にも向かう選曲が、その姿勢を示しています。

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2023年に共演を準備していたピアニストの妹尾武は、変わらない声に驚いたと話していました。
その印象を残したまま、太田は歌う場所や相手を変えてきました。
2024年4月には、入院加療のため予定していた公演への出演を見合わせると発表されました。
ここから先の声の状態を、以前の録音だけで語ることはできません。
声の個性が続いていることと、表現が動き続けてきたこと。
その二つが重なるところに、太田裕美の長い歌手人生があります。
曲ごとの声の使い分けは、太田裕美の歌い方で掘り下げています。







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