1997年、ピーター・セテラはChicago時代の曲を録り直してほしいと頼まれ、最初は乗り気ではありませんでした。
ところが制作を始めると、「もし今、新曲として作るなら」という考え方に変わり、完成した版を気に入ったと語っています。
「If You Leave Me Now」のような大ヒットを、自分で書いて歌った人です。
それでも1992年の取材では、『Chicago 16』以前の録音を聴くのはつらいとも話していました。
なぜ昔の録音に満足できず、後年になって歌い直すことにも初めは戸惑ったのでしょうか。
初期の高音、1980年代の録音、そして旧曲の再録をたどると、売れた歌と自分で納得できる歌との間にあった時間差が見えてきます。
1969〜70年|ロックバンドの高音を、ベースを弾きながら歌う
Chicagoの前身、Chicago Transit Authorityに加わったセテラは、ベースを弾きながらリードも歌いました。
ロバート・ラム、テリー・キャスも歌うバンドで、初期の「25 or 6 to 4」では、ホーンやギターを擁する編成の中で高いパートを担っています。
本人は後年、「25 or 6 to 4」など初期の曲は高く、録音にも苦労したと振り返りました。
2018年にも、当時は高い声を求められ、心地よく歌えていたわけではないと話しています。
一方、2016年の取材では、ラムが書いた初期の曲は歌っていて楽しかったとも語りました。
曲を好きだったことと、その高さを楽に歌えたことは、別の話です。
弾きながら歌うためには、二つの役割を一緒に覚えるのではなく、それぞれを身につける必要がありました。
セテラの説明では、まずベースと歌を別々に練習し、曲を区切って少しずつ合わせます。
演奏を重ねて両方が自然にできるようになると、それぞれに変化をつける余裕も生まれたそうです。
あの高音を担う裏には、声だけに集中できないバンドの仕事と、それを両立させる準備がありました。

写真:Hit Parader / Dcameron814 / Public domain
1976年|自作のバラードが、Chicagoの声の印象を変えた
『Chicago X』に入った「If You Leave Me Now」は、セテラが書いて歌い、バンド初の全米シングル1位になりました。
しかもバンドの公式年譜によると、アルバムから外れる寸前だった曲です。
初期には何人もの歌い手がいたChicagoで、セテラの書いたバラードが新しい代表曲になります。
その成功を、メンバー全員が同じように歓迎したわけではありません。
ロバート・ラムは、聴衆やラジオがバラードを求めるようになったことに戸惑ったと振り返っています。
セテラ自身も、後にバラードを書く人と決めつけられたと話しました。
高い声を持つベーシストから、ラブソングの声へ。
聴き手の中で彼の役割が変わっても、本人が歌いたい曲まで一つに決まったわけではなかったのです。
1982〜85年|歌に手応えが出て、ベースとの兼任を解く
1982年の『Chicago 16』では、デイヴィッド・フォスターが制作に参加し、セテラと「Hard to Say I’m Sorry」を共作しました。
セテラが後に「歌が調子をつかんだ」と挙げるのは、この作品と1984年の『Chicago 17』の時期です。
1992年の取材では、それ以前の録音は多くの意見が入り、自分で確信を持ち切れなかったと説明しています。
ただし、初期の作品すべてを悪かったと言ったわけではありません。
変わったのは録音の進め方だけではありません。
フォスターがシンセサイザーのベースを弾くようになり、セテラは、ベースを手に取っても曲に合わないと思ってケースへ戻したことがあると振り返っています。
自分では、ベースと歌を兼ねる間、どちらにも十分集中できなかったと感じていました。
1985年にChicagoを離れた後、ソロでは歌とフロントマンの役割へ重心を移します。
楽器を変えたから声が変質したという話ではなく、歌うときに同時に担う仕事を減らしたのです。
『Chicago 17』には、セテラとフォスターが共作した「You’re the Inspiration」も収められました。
1976年には自作曲がすでに大ヒットしていましたが、『Chicago 16』以後の制作は、自分の判断に確信を持てるという点で、本人にとって別の段階だったのです。
1986年|ソロで歌に専念しても、バラードだけを望んだわけではない
1986年のソロ作『Solitude/Solitaire』から、「Glory of Love」とエイミー・グラントとの「The Next Time I Fall」が全米1位になります。
Chicagoを離れても、セテラの名を広めたのはバラードでした。
ただ、1992年の本人は、速い曲でもヒットを出したかったと語っています。
レコード会社が次のバラードをシングルに選ぼうとすると、別の曲を出せないか話し合ったそうです。
バンドを離れれば自分の歌に集中できる。
しかし、売れた声には今度はソロ歌手としての期待がついてくる。
セテラにとって、「歌に専念する」と「バラードだけを歌う」は同じ選択ではありませんでした。
1997年|Chicagoの曲を「今の新曲」として作り直す
『You’re the Inspiration: A Collection』では、Chicago時代にセテラが書いた「If You Leave Me Now」「You’re the Inspiration」「Baby What a Big Surprise」の三曲を再録しました。
最初の抵抗が変わったのは、共同制作者ダン・ハフと作業を進めてからです。
セテラは1997年の取材で、昔の版から離れすぎないようにしながら、今初めて曲を作るつもりで手を加えたと話しています。
これは、若い頃の録音をすべて消したいということではありません。
1976年のヒットも1980年代のヒットも残ったまま、作者と歌い手である本人が別の版を作れるようになったのです。
かつては自分の判断に確信を持てなかったと語った人が、すでに知られている曲に対して、もう一度制作上の判断を下しています。
同じ1997年には、R&Bグループのアズ・イェットが歌った「Hard to Say I’m Sorry」にも参加しました。
フォスターを通じて依頼され、ラジオ向けの版で数行を歌ったのです。
自分の曲を丸ごと録り直す仕事とは違い、今度は別のグループによるカバーに、元の歌い手の声が加わりました。
旧曲を残す方法も、自分一人で主役を務める形だけではなくなっていたのです。

写真:RPrinter / Public domain
2000年代以降|昔の曲を残し、いまの編成で歌う
2002年にはフォスターの誘いで、自分の曲をオーケストラと歌う機会を得ました。
2015年の取材では、1990年代末に音楽への意欲が薄れていた時期の後、この経験から数年間のオーケストラ公演へつながったと振り返っています。
新しい曲を増やすだけでなく、歌を支える編成を変えることも、ステージに向かう楽しさを取り戻す方法になりました。
同じ取材では、自分のバンドの公演でも再びベースを手にし、その時点では二公演で試したと話しました。
ソロで歌に専念するためにベースを置いたことも、ベーシストだった自分を永久に封じる決断ではなかったようです。
2017年のビニャ・デル・マール音楽祭でも、1976年の「If You Leave Me Now」を歌っています。
スタジオ録音と大きな会場の公演では条件が違いますが、同じ曲を四十年以上後のステージに残しました。
2018年のセテラは、旧曲のアレンジをできるだけ原形に近づけ、音は現代のものにしていると説明しました。
そして自分の歌について、この時点では調子が良いとも話しています。
昔の録音を一音ずつ再現するのではなく、曲だと分かる姿を保ちながら、自分のバンドで歌う方法を選んでいたのです。
大ヒットした声と、自分が納得できる声の間にあったもの
セテラは、初期のChicagoですでに高い声を任され、「If You Leave Me Now」で全米1位も経験しました。
それでも本人が歌の手応えを得たと語るのは、フォスターと『Chicago 16』『Chicago 17』を作った時期です。
ソロで歌に専念した後も、ヒットするバラードと自分が出したい曲の間で選択を続けました。
1997年の再録は、その選択が過去の名曲にも及んだ出来事でした。
最初はためらった旧曲を、最後には「今作る曲」として気に入る。
1992年に昔の録音を聴くのがつらいと語ったとき、本人が挙げたのは、制作に多くの意見が入り、自分では確信を持てなかったことでした。
2018年には初期の高音も快適ではなかったと振り返っています。
大ヒットした声を否定するのではなく、その曲を今の自分がどう歌い、どう作るかを選び直していったのです。
同じ歌手の声を曲の中でどう生かすか――低い部分を別の歌い手に任せ、言葉を自分の声に合わせ、相手の声と組み合わせる選択は、ピーター・セテラの歌い方で詳しく扱っています。

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