ロバート・スミスの歌には、心細さと強い意志が一緒にあります。
頼りなさを隠しきらない声で、人を引き寄せる。
その印象が強いだけに、長い年月を通じて同じように歌い続けてきたと思われるかもしれません。
けれども、その声をどんな表情で使い、どのように録音へ残すかは、何度も変わっています。
最初から、自信に満ちた歌い手だったわけではない
1977年、まだEasy Cureと名乗っていたバンドで、スミスは歌を担うようになりました。
もともとギターを弾いていた彼が前へ出たのは、ふさわしい歌い手がなかなか見つからなかったためです。
華やかな歌唱力を売りにして登場したフロントマン、という出発ではありません。
初期について、本人は歌を演じることより、その曲に必要な気持ちになることを重視していたと振り返っています。
出来のよい歌唱もあれば、音程が合っていないものもあったという、率直な自己評価です。
話すときの自分とかけ離れた声を使うことにも、違和感を持っていました。
1979年の初作『Three Imaginary Boys』には、すでに声の扱いの違いが見えます。
「10:15 Saturday Night」の終わりのささやきと、「Fire in Cairo」で文字を一つずつ歌にする遊び。
まだ大きな音の壁に囲まれる前から、言葉の置き方で曲の表情を変える芽がありました。
暗さを背負うだけの歌から、表情を選ぶ歌へ
『Seventeen Seconds』『Faith』『Pornography』を経て、バンドの世界は濃い暗さを帯びていきます。
しかし、1982年のツアーの緊張やバンド内の亀裂を経験したスミスは、その方向だけを続けようとはしませんでした。
「Let’s Go to Bed」へ向かう時期には、もっと明るいものを作りたいという気持ちがあったと話しています。
歌い方の転機として本人が挙げたのは、1984年の『The Top』です。
声をきれいにするだけでなく、違う表情のために声を変える試みを始めたのです。
その変化は「Boys Don’t Cry」の歌い直しにも表れます。
1979年の曲を1986年に再録した際、スミスは歌い手としての上達と自信を感じていました。
旋律やフレーズを大幅に変えず、声の響きと感情をもっと込めることを目指したと説明しています。
同じ曲を歌い直した例だからこそ、変化の焦点がはっきりします。
曲そのものを派手に作り替えることと、歌の中身を深めることは別です。
スミスが広げたのは、もともとの声を捨てずに、その声へ何を託せるかという可能性でした。
1987年の『Kiss Me, Kiss Me, Kiss Me』では、さらに歌の役柄を意識するようになります。
奔放な曲では人物を演じる一方、静かな曲には以前からの自分を残します。
1989年、抑えた声が長い曲を引き受ける
『Disintegration』では、その多彩さが別の形へまとまります。
「Plainsong」などの張り詰めた抑制と、表題曲で高まっていく嘆き。
長い流れの中で感情を蓄える歌です。

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ここでの変化を、単に声が暗くなったと捉えると、歌の働きを見落とします。
長く続く演奏の中で、声がすぐに感情を出し尽くさない。
抑えた状態があるから、そこを越えて歌が迫ってくる瞬間にも意味が生まれます。
短いポップソングの一節を印象づける力が、長い曲の緊張を保つ力へも広がったのです。
スミス自身は、「One Hundred Years」と「Disintegration」に共通するリズムの執拗さを認めつつ、歌っている内容の違いを説明しています。
前者の全面的な断念に対し、後者には関係から離れようとする意味がある。
似た暗い音の中でも、声が担う感情の行き先は同じではありませんでした。
1990年代、歌を待ち、重ね方を見極める
1992年の『Wish』では、「Friday I’m in Love」の明るさも加わります。
スミスは、この楽観的な曲が釣り合いをもたらすと話しました。
暗い歌を書き続けるだけでは意味がないという考えが、歌う感情の幅を支えています。
1996年の『Wild Mood Swings』制作では、歌を仕上げる時間の使い方が具体的に語られています。
スミスは歌を数週間抱えてから歌い直し、必要なコーラスを判断していました。
エンジニアのスティーヴ・ライオンは、判断がつくと重ねるパートが短時間で録れるほど、本人が自分の声を理解していたと説明しています。
1987年には、豊かな伴奏の中でも自分の声を単独で残す素朴さを好む、と話していた人です。
声を重ねればよくなるとは限らないという感覚を持ちながら、必要な場所には重なりを加える。
一人の声をどう置くか、その判断も歌唱表現の一部になっています。
歌声の変遷は、毎回の新作で声質が変わることだけを指すものではありません。
同じ声のまま、歌い直す時機や、もう一つ声を添える場所を選べるようになる。
この時期の制作談には、感情をその場で出す力と、後から歌の姿を見極める力の両方がうかがえます。
2004年、歌の感情をバンド全体で共有する
2004年の『The Cure』では、プロデューサーのロス・ロビンソンが制作の順序に働きかけました。
従来は演奏が先にでき、後から歌によって曲の意味が見えてくることが多かった。
今回は歌詞を先に用意し、何を表す曲なのかを、演奏するメンバーにも感じてもらおうとしたのです。
スミスは、ロビンソンが目の前に立ち、相手の心を動かすよう求めてきたことも話しています。
その相手へ向けて歌う経験が、スタジオにいながら観客と通じ合う瞬間に近いものをもたらしました。
明るい曲でさえ、ただ軽快に歌って済ませることを許されなかったといいます。

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「Lost」では、進むにつれて切迫感を増す歌と、激しさを増す演奏が向き合います。
一方、「The End of the World」のような比較的明るい曲にも、切実な勢いがある。
声を美しく仕上げること以上に、その場で感情を伝え切る歌が前へ出た作品です。
バンドの外で、別の歌声と向き合う
2021年のCHVRCHESとの「How Not to Drown」では、歌の置かれる場所も変わりました。
スミスは、バンドを離れてソロ歌手になることより、他者との共作で違うことを試す意義を語っています。
ローレン・メイベリーと歌うこの曲を、従来の参加作品とは違う、デュエットとして捉えていました。
一人で曲の世界を代表する歌と、もう一人の声を受けて歌うことには違いがあります。
長く親しまれてきた声の個性をそのまま持ち込みながら、相手と一つの曲を作る。
表現を広げるために別人のような声になる必要はない、ということも、この共演は示しています。
2024年、今の自分が歌える言葉へ
『Songs of a Lost World』を発表した2024年、スミスは、年齢を重ねるほど、正直に感情を込めて歌える言葉を書くのが難しくなったと話しています。
音楽の材料はあっても、その上で自分が本当に歌える言葉が必要だった。
長い制作期間を、声を出す能力の問題だけで説明することはできません。
「I Can Never Say Goodbye」で歌うのは、兄を失った痛みです。
また「And Nothing Is Forever」には、終わりを見つめながら、誰かと共にいることへ気持ちを寄せる面があります。
悲しみを一種類の暗い表情へまとめず、喪失と愛着をそれぞれ歌にしているのです。
若いころからの心細い響きは、今もスミスの歌を考える手がかりです。
けれど、その響きが担ってきたものは、曲ごとの役柄、長い曲の緊張、目の前の相手への切実さ、身近な人を失った思いへと広がりました。
声の輪郭を保ちながら、その声で歌う理由を更新してきた歩みといえるでしょう。
具体的な声の使い分けは、ロバート・スミス(The Cure)の歌い方で掘り下げています。

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