米良美一の「もののけ姫」を思い出すとき、まず浮かぶのは高い声だろう。
けれど、この曲の強さは音量を上げて押し切ることにない。
長い音の中で日本語を失わせず、歌い手本人を前面に出しすぎずに、映画の物語へ声を渡している。
米良がカウンターテナーとして培った声の扱いが、短い歌詞の一つひとつを大きな風景にした。
その声を「裏声だから軽い」「男性なのに女性のよう」とだけ説明すると、大切な部分を見逃す。
米良本人は2023年、カウンターテナーの面白さを、高いファルセットと低い地声の間を滑らかに行き来するところに見いだしていた。
高音一色ではなく、声の高さが変わっても同じ人の言葉として届くことが、歌い方の核にある。
静かな歌に、力がないわけではない
「もののけ姫」は1997年の映画主題歌で、米良の歌唱と器楽版は別に発売された。
声が入ると、同じ旋律に言葉の向きが生まれる。
大きく叫ぶ歌なら音量に注意が向くが、この曲は音が長く保たれるほど、言葉の輪郭をどう残すかが問われる。
米良は大学で声楽を学び、映画以前から日本歌曲を録音していた。
クラシックを基盤にしているため、声を高く出すことだけが目的ではない。
詩を旋律へ乗せ、響きを保ちながら言葉を届けることも仕事になる。
「もののけ姫」を聴いてカウンターテナーを初めて知った人には、その下地が見えにくい。
映画で突然現れた声ではなく、日本語を歌う経験の上に置かれた声だった。
長いフレーズの静けさは「簡単に歌っている」ことを意味しない。
声を大きく揺らして感情を説明しなくても、音の持続とことばの間合いで場面を支えられる。
ここが、声の高さ以上に歌を印象に残す点だ。
作曲した久石譲は当時、カウンターテナーの響きが暗くなりすぎないか心配したが、米良の歌を聴いてその不安はなくなったと振り返った。
単に高い声を使うだけでは曲に合わないかもしれない、という作り手の懸念を、歌唱が越えたのである。

画像:公式掲載元。
「ヨイトマケの唄」と並べると、声の仕事が変わる
米良が歌う別の代表曲「ヨイトマケの唄」では、抽象的な森の情景より、人が生きる話が前へ出る。
2005年のアルバムにも収録され、長くライブで歌い続け、2023年には「もののけ姫」とともに舞台の曲目に選ばれた。
ここでの違いを「高い声対低い声」という単純な勝負にしないほうが面白い。
「もののけ姫」で問われるのは、姿の見えない語り手のまま、短い言葉を長い音へ託すこと。
「ヨイトマケの唄」で問われるのは、歌の中にいる人の境遇が伝わるように語ることだ。
同じ歌手でも、曲が要求する聴き手との距離は異なる。
米良は自分の声について、ファルセットの高い声と地声の低い声を滑らかに行き来することをカウンターテナーの妙技だと表現した。
ここで大切なのは、高い音が出るかだけでなく、その前後を滑らかにつなぐことまで本人が含めている点だ。
声を変えた場所だけが目立てば、歌の言葉より切り替えの驚きが前に出る。
違う声を使いながら、一つの流れを作ることに表現の余地がある。
米良の歌を一曲だけで判断しにくい理由でもある。
「Red Doors」は、裏声と地声で二つの世界を描く
その使い分けを本人が具体的に説明した曲が、2017年のアニメ『18if』のオープニング曲「Red Doors feat. 米良美一」だ。
作曲・プロデュースをTeddyLoid、作詞を岩里祐穂が担当した。
夢と現実を行き来する作品に合わせ、米良もファルセットと地声を使い、二つの世界の境目を行き来するように歌ったと制作時のコメントで明かしている。
高い声はどの場面も同じ意味を持つわけではない。
この曲で米良が声の違いに託したのは、音域の広さを示すこと以上に、世界の境界が揺らぐ感覚だった。
総監修の森本晃司も、夢と現実を往復する物語の、不思議さや危うさを音楽で強調してほしいと注文したと説明している。
声の切り替えが、映像の外から目立つための技巧ではなく、作品の中へ入っていく方法になったのだ。
米良は同じコメントで、自分が録った声をTeddyLoidが編集することにも期待を寄せていた。
歌い手が裏声と地声を選ぶ工程と、録った声を加工して曲に組み込む工程が、ここでは組み合わさっている。
完成した音の不思議さをすべて喉の技術だと捉えると、この共同作業が見えなくなる。
自分の声を差し出し、ほかの音楽家が作る景色の中で働かせることも、米良の歌唱表現の一部なのだ。

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録り直しの回数より、どんな声が必要か
『18if』主題歌集をめぐる音楽ナタリーの対談では、録音現場の進め方も語られている。
TeddyLoidは、完成した曲の姿を頭に持ち、そのために必要な声が録れたら終えると説明した。
米良が評価したのは、目的の見えない録り直しを重ねず、現場の雰囲気を保ってくれたことだった。
米良自身は、求められれば何度でも歌うという。
しかし、何を目指すのか分からない録音が続くと、スタッフにも重い空気が広がり、声が出なくなる可能性さえあると話している。
回数を増やすほど、よい声に近づくとは限らない。
必要な響きや表情を作り手と共有できることが、歌い手の持つ声を生かす条件になる。
静かな曲でも電子音の曲でも、声の良し悪しを単独で決めず、完成する音楽の中で判断するという視点が大切なのだ。
「高い声」を再現するより、役割を聞き分ける
米良の高い声を、女性の声に近づけるためのものと考えると、本人の説明とずれてしまう。
2023年の『ぶらあぼ』の取材で、米良はこの声で歌うときに最も自分らしくいられると話した。
若い頃は自信を持てずに苦しんだが、次第に自分自身を受け止め、歌を通して自分という存在を届けたいと思うようになったという。
同じ声種の歌手が集まっても、表現が一つにそろうわけではない。
Hakuju Hallの取材では、共演する藤木大地と村松稔之の端正さに触れ、自分は癖の強い方かもしれないが、その違いを楽しみたいと語っている。
カウンターテナーという呼び名は、米良の声を知る入口にはなる。
ただし、その呼び名だけでは選曲や言葉への向き合い方までは説明できない。
聴くときは、声が何をしているかを曲ごとに見るとよい。
風景をつくるのか、人の話を近くへ運ぶのか。
高く響く声だけが米良らしさなのではない。
本人が言う高低の行き来を含め、声の選択を歌の役割へ合わせる姿勢が、それぞれの曲を結んでいる。
その選び方が1990年代から2010年代にかけてどう広がったかは、米良美一の歌声の変遷でたどれる。
映画主題歌の記憶を入口にしながら、米良美一の歌をもう一曲へ広げて聞くと、高音の印象だけでは見えなかった表現が現れる。







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