トム・ヨーク(Radiohead)の歌声の変遷|自分の声を見つけたのに、なぜ加工したのか

2010年、グラストンベリーで歌うトム・ヨーク シンガー
wonker / CC BY 2.0

1995年に発表された「Fake Plastic Trees」を録ったとき、トム・ヨークは自分の歌を聞いて、弱さが出すぎていると感じました。
ところが、Radioheadのメンバーはその歌を残したいと言います。
トムが隠そうとしていたものが、曲には必要だったのです。

2000年のアルバム『Kid A』では、同じトムが声を機械で変え、旋律の一部をジョニー・グリーンウッドに任せました。
ようやく受け入れた声を、なぜそのまま聞かせなかったのか。
二つの曲の間に起きたことから、歌い手としての変化をたどります。

1995年――自分では隠したかった歌を残す

トムは若い頃、マイケル・スタイプやデヴィッド・シルヴィアンの低い声に憧れていました。
自分の声は高く、柔らかすぎると感じていたのです。
転機の一つは、自作のデモをニール・ヤングに似ていると評されたことでした。
初めてヤングのレコードを買い、自分が隠したかった柔らかさも歌になり得ると知ります。

それだけで、すぐに迷いが消えたわけではありません。
『The Bends』の制作中、ジェフ・バックリィの公演を見たことがもう一つの後押しになりました。
プロデューサーのジョン・レッキーは、裏声でも弱々しい歌になるとは限らないとトムが気づいた、と振り返っています。

公演を見たのは、曲が発売される前年の1994年です。
ただ、その刺激を受けて、すぐ穏やかに歌えたわけではありません。
当時の録音を振り返ったトムは、スタジオで苛立ち、レッキーがほかの人を外へ出してから、仮の歌を録ったと話しています。
ベースのコリン・グリーンウッドによれば、トムは三回演奏し、そのときの歌が作品に使われました。
その場を整えたレッキーと、歌を選んだ仲間の判断が、本人の戸惑いを越えて録音を残す助けになりました。

「Fake Plastic Trees」では、トムが一人で録った歌をメンバーが採用したがりました。
本人は、あまりに自分が出ていて、あまりに傷つきやすく聞こえると戸惑ったそうです。
あとから録音を聴いて涙が出たことも、本人が認めています。
よい声を新たに作ったのではありません。
避けていた声を、曲の中に残したのです。

1998年、ワシントンD.C.公演のトム・ヨーク
1998年、ワシントンD.C.公演のトム・ヨーク。
写真:John Mathew Smith & www.celebrity-photos.com from Laurel Maryland, USA / CC BY-SA 2.0

2000年――「Kid A」では、歌手の役割を分ける

『OK Computer』の後、バンドの中でトムの歌には別の重さが加わりました。
ギターのエド・オブライエンによれば、歌詞を何でもトム自身の苦しみとして受け取られる状態に、本人は行き詰まりを感じていました。
ジョニーも、同じ声で同じことだけをする状態から、別の使い方を探していたと話しています。

『Kid A』の表題曲で選んだのは、声を隠して何も歌わないことではありません。
トムが言葉を口にし、ジョニーがオンド・マルトノという電子楽器で旋律を動かす。
その音をヴォコーダーに通し、二人で一つの歌声を作りました。

トムは、この曲の言葉をそのまま歌うことには抵抗があったと説明しています。
ジョニーが旋律を担い、自分の声が加工される形なら、曲に入れられた。
機械を使ったのは、生の声を出せなくなったからではありません。
自分一人が言葉も旋律も背負う形を変え、別の人物のように歌える余地を作ったのです。

言葉の用意の仕方も変わっていました。
トムは書けない時期に捨てずに残した断片を帽子へ入れ、スタジオで何を歌うか分からなくなると、そこから取り出していたと説明しています。
完成した物語を覚えて歌う手順とは違い、演奏している場で言葉を選び、音へ入れていく方法です。
2000年の取材では、素材を集め、映画のように編集して一つの歌にする制作だったとも話しています。

この変化を音声の加工だけで捉えると、歌う前に起きたことを見落とします。
曲を一つの大きな感情で通そうとする負担を、短い言葉と音の組合せへ分けていった。
トムは断片から作る方法によって、感じていない気持ちを無理に持続させずに済むようになったと振り返っています。

2003年――加工した声を通った後で、また歌う

この実験を経て、2003年の『Hail to the Thief』では歌が再び前へ出ます。
公式の取材用CDでジョニーとエドは、トムが落ち着いて歌い、その声が作品を引っ張っていると話しました。
エドによると、トムはその前にゴスペル歌手マヘリア・ジャクソンをよく聴き、声が楽器として働くことにも刺激を受けていました。

「Sail to the Moon」についてトム自身は、また歌うようになったと振り返ります。
ただし、録った声を曲のどこへ置き、どう響かせるかは、プロデューサーのナイジェル・ゴドリッチにかなり任せました。

この曲は幼い息子へ書いた、個人的な歌でした。
コリンは、デモのままでも人をひきつける曲だから、演奏を加える側がよさを壊さないよう気を配る必要があったと説明しています。
歌う本人が安心できることに加え、周りもその歌をどう支えるかを考えていた。
ゴドリッチへ仕上げを任せたという話は、そうした仲間の判断と組み合わさっています。

1995年には、自分の弱さが聞こえる歌を残すことに戸惑いました。
2000年には、機械と仲間の手を借りて歌手の姿を変えました。
そして2003年には、自分は歌い、仕上げを信頼する相手に委ねる。
元の歌い方へただ戻ったのではなく、声をどう扱うかを一人で決めなくてもよくなったのです。

2013年、日本でのトム・ヨーク
2013年、日本でのトム・ヨーク。
写真:Yasuko Otani / CC BY-SA 4.0

2019年――大きく歌わずに、感情を運ぶ

ソロアルバム『ANIMA』の「Dawn Chorus」では、別の難しさに向き合います。
トムによれば、歌はほとんど一つの音で進みます。
その歌に合う、できるだけ冷たく感じるシンセサイザーの組み合わせが見つかるまで、何度も試しました。

歌を決めてから、好きな伴奏を添えたのではありません。
本人にとっては、その電子音の組合せを見つけることが、曲へ入る手がかりでした。
ほとんど同じ高さを保つ歌では、大きく音を上げるような変化に頼れません。
だからこそ、声をどんな響きの中に置くかが、感情と結びつく問題になっていました。
何度も音を試す作業を、トム自身は感情的なつながりのある探索として説明しています。

トムは同じ取材で、『The Bends』の頃に、見せたくなかった傷つきやすい部分こそ大切なのだと気づいたと振り返っています。
その感情を伝える方法は、裏声を伸ばすことだけではなかった。
ほとんど動かない歌と冷たい電子音を合わせることも、一つの答えでした。

2023年――昔の曲は難しくても、今の声を好む

歌い方の選択とは別に、年月とともに声そのものも変わりました。
2023年に公開された取材でトムは、声が少し柔らかくなり、音の中心もやや低いほうへ動いたと話しています。
そして、以前より今の自分の声のほうが好きだと述べました。

一方、若い頃の曲には難しいものがあります。
「Creep」の高い箇所は裏声にすれば歌えるが、本人はなるべくそうしたくない、と説明しました。
高い音が出るかどうかだけでなく、どんな声でその曲を歌いたいかも、彼には大切なのです。

「Fake Plastic Trees」で残した声と「Kid A」で加工した声は、どちらが本当のトムかを選ぶための二曲ではありません。
弱さを隠さず歌った後も、その声を別の音に変える道へ進みました。
2003年の歌への戻り方や「Dawn Chorus」の小さな動き、現在の声への好意まで見渡すと、彼が探してきたのは一つの正しい声ではなく、曲に合う声の役割だったと分かります。

現在の声で曲をどう作り、加工するかは、トム・ヨークの歌い方でも取り上げています。

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