石川智晶の歌を考える時には、一人で旋律を歌う声と、録音で幾重にも重なる声を分けてみると、工夫が見えやすくなります。
主旋律を支える声の芯と、周囲に広がるコーラスは、同じ役割ではありません。
しかも、声をたくさん重ねることが得意だからこそ、重ねないことを選ぶ曲もあります。
声そのものの特徴と、曲の中でその声をどう配置するかを、具体的な制作の話からたどります。
声を大きく揺らさなくても、旋律には芯が残る
梶浦由記は、石川の声の魅力として、ビブラートをかけずに保つ芯のある声を挙げています。
また、See-Sawの「千夜一夜」では、まっすぐな歌の心地よさを評価しました。
ビブラートは、伸ばした音を周期的に揺らす表現です。
揺れを聞かせる歌では、その動きも一つの表情になりますが、まっすぐ保つ声には、旋律の線をはっきり示す働きがあります。
石川の歌の説明でまず手がかりになるのは、細かい装飾をいくつ重ねたかより、一本の音をどう聞かせるかです。
影山ヒロノブも、石川の声には力があると話しています。
静かな印象の曲を歌っていても、大勢で一緒に歌う場面では、その声の強さが分かる。
共演した立場から、曲の雰囲気と声の力を分けて捉えていたのです。
静かな曲だから、声まで弱く出しているとは限らない。
逆に、声に芯があることと、いつも大きな音量で押し切ることも別です。
梶浦と影山の見方を並べると、石川の澄んだ歌に感じる存在感を、柔らかさだけで説明しきれない理由が見えてきます。
ただし、これを全曲でビブラートを使わないという規則にしてしまうと、曲ごとの選択を見失います。

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「クラウディ」「49scale」では、もう一つの声の世界を作る
『誰も教えてくれなかったこと』に収録された「クラウディ」と「49scale」では、コーラスをほぼ一日がかりで歌ったと石川は振り返っています。
主旋律を一度歌って終わる録音とは、声を使う作業の量から違っていました。
多重コーラスでは、別々に録った声を重ねて一つの音にします。
聴き手には大きな声の塊として届いても、それを一度に一人で発声しているわけではありません。
前に出る主旋律と、その周りに置く声を作り分けることで、録音ならではの広がりが生まれます。
ここで、歌手の声量だけを大きくしても、同じ働きにはなりません。
一本の声を強くすることと、違う声の線を何本も組み合わせることでは、増えるものが違うからです。
石川の歌を理解するには、高音や声量に加え、声が重なる場所にも耳を向ける必要があります。
意味を伝える主旋律と、意味を決めないコーラス
2015年の『物語の最初と最後はいらない』について、石川はコーラス用の言葉を自分で作り、歌詞の意味とは結びつけていないと説明しました。
一方、「兄妹~aniimouto~」の冒頭には日本語の声が入ります。
こちらは綿密な理由を先に決めたのでなく、その場で一度歌って入れたものでした。
ただし、どの作品でも意味のない言葉を使うわけではありません。
『戦国BASARA』に関わる曲では、弔いの気持ちを込め、仏教の言葉を入れたこともあると説明しています。
意味の分かる言葉なら、聴き手は何を言っているかを追います。
意味の決まっていない音なら、響きや重なり方そのものへ注意が向く。
歌詞と別の言葉を使うコーラスには、主旋律の説明を増やさず、曲の雰囲気を広げる余地があります。
すべての声を、同じ物語を説明するための言葉にそろえなくてもよいのです。
ところが「水のないプール」では、コーラス自体を入れませんでした。
少年がプールのそばを歩く短い間の意識を描いた曲で、何かを達成する結末が用意されているわけではありません。
その空虚さを表すため、本人は淡々とした仕上がりを選んでいます。
声を重ねれば、それだけで寂しさが深まるとは限りません。
むしろ周囲を声で満たさない方が、何も満たされていない感覚に近づくこともある。
得意なコーラスを外した判断には、歌を豪華にすることより、その曲が必要とする感情を優先する考えが表れています。
「内側に向かう」では、主旋律が一つとは限らない
minus(-)の「内側に向かう」では、二つの歌詞が同時に進む部分があります。
藤井麻輝は、複数の旋律を同時に成立させ、重なるところでは絡ませる作り方だと説明しました。
これは、一つの旋律を前に出し、他の声を背景へ置く関係とは異なります。
それぞれの声が、別の言葉と旋律を進めているからです。
重なった声をすべて伴奏のようなコーラスと捉えると、二つの流れが同時に動く面白さが抜け落ちます。
主旋律と背景を聞き分ける曲もあれば、どちらの声にも耳を移しながら聴く曲もある。
石川の録音における声の使い方は、声色を変えることだけでなく、複数の歌をどう共存させるかにも関わっています。
一人の歌手を聴いているのに、追いかける旋律が一つに収まらないところに、この曲の特徴があります。

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同じ曲でも、誰がどの場面で歌うかで表情が変わる
昆夏美に提供した「私は想像する」を自分で歌った時、石川は、昆の健康的な魅力に対し、自分の歌はそうした方向ではないと話しました。
同じ曲でも、歌い手が持つ雰囲気までそろえようとはしていなかったのです。
逆に、石川の歌を他の歌手が手がかりにする場合もあります。
2023年の「眠らされたリネージュ」で、JUNNAは、まず石川の仮歌をまねできるところまで練習し、そこから自分らしさを加えるようプロデューサーに勧められました。
完成した歌を聴いた石川は、単なる模倣にならず、JUNNA自身のリズムで曲を引き寄せていたことを喜んでいます。
石川の声で示された曲の形を受け取り、別の声で歌い直す。
その時、元の歌へ似せきることだけが完成の条件ではありません。
歌い手が変わることで生まれる表情の違いも、作り手の石川が求めるものなのです。
「雪が眠るとき」では、同じ石川が歌っても、舞台とアルバムで狙う感情が異なりました。
戦いの中の迫力を担う歌から、悲しさや寂しさを伝えるピアノ版へ。
本人の説明を踏まえると、伴奏が少なくなったというだけでなく、歌で届けたいもの自体が変わった版だと分かります。
楽器を減らせば、自動的に歌も小さく、弱くなるわけではありません。
どの感情を近くに感じてほしいかを決め、そのために声と伴奏の関係を作り直す。
編曲の違いは、歌の強弱を一律に決める条件ではなく、別の表現を選ぶきっかけにもなります。
石川自身は、メロディーをきちんと歌いたいし、もっと上手くなりたいと話す一方、技術の高さだけで心へ届く歌が決まるとも考えていませんでした。
まっすぐな旋律を保つ声、幾重にも重ねる声、あえて周囲に加えない声。
どれか一つを石川智晶の唯一の歌い方とするより、曲の中でそれぞれが何を担うかを見ると、選択の細やかさが分かります。
なかでも「水のないプール」は、特徴的なコーラスを使わないことまで含めて、その人らしい表現になり得ると教えてくれます。
時代をまたいだ歌い方の選択は、石川智晶の歌唱変遷で追っています。







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