UAの歌声はどう変わった? 「次は違う曲」から、同じ言葉を歌う「Happy」まで

UAの公式アーティスト写真 UA
UA。出典:SPEEDSTAR RECORDS 公式プロフィール

デビュー30周年の曲「Happy」には、息子の率直な意見が生きている。
同じメロディーなのに、どうして歌う言葉を次々に変えるのか。
UAはその問いを受けて、サビの言葉をできるだけ変えずに歌うことを選んだという。

1990年代のUAは、前のシングルとは違う曲にしたいと考え続けていた。
「情熱」の次に「リズム」、その次には「雲がちぎれる時」。
変わることが創作の勢いになっていた歌手が、30年後には、言葉を繰り返す心地よさにも向き合った。
そこに至るまで、声そのものだけでなく、歌を作る方法、ステージでの意識、聴く人との距離も変わっている。

その歩みをたどると、同じ言葉の反復が、創作を止めることではなく、聴く人へ歌を近づける新しい試みだったと分かる。

「情熱」のあとも、同じ曲にはしなかった

UAは1995年に「HORIZON」でデビューし、翌年の「情熱」で広く知られた。
朝本浩文が手がけた「情熱」は、歌の力強さとリズムが印象に残る曲だ。
けれど、UAはその成功を、次の曲の型にしなかった。

本人は後年、前の曲がこうだったなら次はどうするかを考えていたと振り返っている。
「リズム」から「雲がちぎれる時」、「甘い運命」から「悲しみジョニー」、そして「ミルクティー」へ。
歌を取り巻く音も、歌の温度も、一曲ごとに変えた。
ヒットした一曲の印象を、次の曲の答えにはしなかった。

「情熱」そのものも、最初から完成した伴奏に歌を乗せただけの曲ではない。
制作中には音数の少ない案、管楽器を重ねた案、その中間があり、UAは最も音の少ない案を気に入っていた。
最終的には中間案になったが、声を強く響かせるなら、周りの音もただ強くすればいいわけではないという好みが、すでにあった。

その一方で、曲が変わる理由には生活で経験したことも含まれていた。
「甘い運命」と「悲しみジョニー」の間に子どもを産み、人間観や死生観が変わったとUAは語っている。
曲ごとの差は、サウンドだけでなく、歌へ持ち込む視点の差でもあった。

『泥棒』では、歌を置く場所を自分で作った

1990年代には、作曲家やプロデューサーが曲ごとに変わっていた。
2002年のアルバム『泥棒』でUAが選んだのは、固定したバンドと徹底した事前の演奏づくりだった。
本人によれば、自分のこだわりを細部まで行き渡らせたかったのである。

曲ごとに異なる作り手と相談する方法から、固定した演奏陣と細部まで詰める方法へ。
歌が入る前の演奏から、自分の声を置く場所を作り込むようになった。

同作には「閃光」も収められている。
初期のシングルをさらに一曲ずつ変えていく時期を経て、アルバム全体の音を自分で見通す時期へ進んだ。
UAは、自分のものだと言える音楽を作りたい気持ちが当時あったと振り返る。
流行した「ソウルフルな歌姫」という枠から離れるだけではなく、どの演奏の中で自分の声を使うかを、より深く引き受けたのだ。

ジャズとの再会で、その時々の声を受け入れる

2006年、UAは菊地成孔との『cure jazz』を発表した。
かつて大阪の店で歌い始めた頃、周囲にはジャズを演奏する人がいたが、自分はアレサ・フランクリンの曲などを歌っていたという。
だからこの共演は、急に「大人のジャズ歌手」になったという単純な話ではない。
ずっとそばにあった音楽へ、自分の声で入り直す挑戦だった。

2014年の再結成ライブでは、冒頭でUAが歌い始めた声に、菊地らがその場で応じた。
これが「Amaiyu」だったという。
母の故郷である奄美、その加計呂麻島に伝わる言葉を朝崎郁恵から習っており、それが舞台で歌になったのだ。

『泥棒』で演奏を事前に詰めた方法とは異なり、ここでは、歌が始まってから演奏の形が生まれている。
次に何が返ってくるか決まっていない相手と歌を作ることも、UAの表現の一部になっていた。
「Amaiyu」は、2014年のライブ盤『cure jazz reunion』の一曲目にも収められている。

2016年のアルバム『JaPo』では、歌う際の自分自身にも変化を感じていた。
沖縄で参加したアフリカンダンスの場では、生のジャンベに合わせて、近隣の人たちと長い時間身体を動かした。
本人によれば、踊りが得意だったわけではないが、言葉だけで考えていても分からないものに触れられたという。

その経験を経て、以前より歌っている瞬間へ集中できるようになったと話している。
ライブで歌詞を間違えても、その気持ちを次の曲まで引きずることが減ったという。
これは、音程や声量では測れない、舞台で歌う人としての変化だ。

『JaPo』の「AUWA」に込めたのは、難しい歌い方を見せることではなく、愛や祈りを音で届けることだと本人は説明した。
中盤には「ホツマ」の辞典を読みながら、意味と音の響きが合う言葉を選んだ箇所もある。
本人は、島唄を習う中で、自分のオリジナルとは異なる、受け継がれた言葉を歌う感覚にも触れたと語っている。
祈りという主題は、歌詞の内容だけでなく、どの言葉を声にするかという試みにもつながっていた。

2021年の再々結成では、ピアノ、ベース、ドラムの顔ぶれも以前から変わった。
菊地が説明したのは、同じユニット名でも、共演する世代や演奏の考え方は動いているということだ。
過去のライブを再現するだけの再結成ではない。

この公演を前にUAは、『cure jazz』を重ねるたびに、その年齢なりの声量や声の位置に発見があると語った。
変化を一律の衰えとも、単なる成長とも呼ばない。
共演によって自分でも知らなかった自分が出るから面白い、と受け止めている。
若い日の録音へ声を合わせ続けるより、現在の声が見つける場所を歌にする姿勢だ。

かつての曲を待つ人の反応が、ポップへの道を開いた

2022年の「微熱」では、マヒトゥ・ザ・ピーポーから届いた遅い弾き語りの曲を、UAが踊れる曲にしたいと考えた。
切なさを歌いながら体は動く。
同じ頃、UAは聴く人との関係についても考え直していた。

窓辺で撮影されたUAのポートレート
UA(2022年のインタビュー掲載写真)。
出典:Bezzy

『JaPo』後のライブでUAは、朝本が手がけたかつてのシングルを聴きたいという客席の気持ちを感じ取った。
旧曲を歌うと会場の空気が変わり、自分もうれしくなる。
その経験を経て、以前は自分の作りたいものを中心に考えていたが、今は聴く人のことを強く意識するようになったと話している。

身近な子どもたちの反応も大きかった。
大人には懐かしいディスコ調の曲を、初めて聴く音楽としてすぐに覚えて歌う。
自分の「太陽手に月は心の両手に」も好んで歌う姿を見て、UAは、すぐ口ずさめる曲の力を考え直したという。
昔からのファンと、まだ音楽を聴き始めた子どもたちの両方が、今の歌を考える相手になった。

UAは「微熱」の歌詞にある、以前なら自分には歌えなかったほど直接的な恋愛の言葉も、今は歌えるようになったと語る。
理想や祈りに向かっていた時期を通り、身近な現実の気持ちも、ポップソングとして人に渡せるようになった。

「情熱」や「ミルクティー」の伴奏と歌の関係を、曲ごとに詳しく見たい場合は、UAの歌い方の記事でも取り上げている。

「Happy」は、同じ言葉を歌うことを選んだ

2025年に発表した「Happy」で、UAはさらに小さく、しかしはっきりした選択をした。
息子に、同じメロディーなのになぜ歌詞を変えるのかと問われ、サビでは言葉をできるだけ変えないことにした。
以前は作品に入れにくいと感じていた食卓の言葉も、この曲には取り入れられたと話している。
新しい言葉を次々と足す面白さより、聴き手が覚えて自分でも歌えることに耳を向けた選択だ。

1990年代の彼女は、前のシングルから一変することを大切にした。
その姿勢があったから、多くの異なる曲を自分の歌にできた。
「Happy」では、同じ言葉をもう一度歌っても、その声に新しい気分が生まれることを選ぶ。
以前の考えを間違いとして消したのではない。
変える自由に、繰り返す自由が加わったのである。

UAの歌声の歩みには、一本の矢印で示せる「強い声から柔らかい声へ」という結論はない。
曲ごとに違う顔を見せ、自分で演奏を作り、その瞬間の身体と声に向き合い、待っている人の反応を受け取る。
その積み重ねの先で、同じ言葉をもう一度歌えるようになった。
変化を重ねたからこそ、いまの声で昔の歌も新しい歌も引き受けられるのだ。

シンガー人気投票。投票ページはこちら

こちらの記事もおすすめ

コメント

タイトルとURLをコピーしました