ポール・スタンレーの歌声の変遷|高音を追い求めたKISSから、ソウルの歌へ

1992年のポール・スタンレー(撮影:Tilly antoine) シンガー
1992年のポール・スタンレー(撮影:Tilly antoine)

KISSの歌手がソウルを歌うと聞くと、別の人に生まれ変わったように思えるかもしれません。
けれどポール・スタンレーは、ロックは自分が選んだ音楽の一つだと考えていました。
歌う場所が変わる中で、声に何を求めるようになったのでしょうか。

高く、鋭い声を目指していた頃

1978年、最初のソロ・アルバムを録音していたポールは、歌い始めてから声が十分に温まるまで時間がかかると話していました。
歌い込むほど高い音へ進みやすくなるという、当時の本人の感覚です。
共同制作したジェフ・グリックスマンも、ポールはあえて自分にとって高いキーで曲を書き、そこへ届こうとしていたと証言しています。
生まれつき高い声だったというだけでは説明できない、目指す音の鮮明さがありました。

本人が当時追い求めていたのは、高く鋭い声でした。
これはポール自身の録音時の経験であり、長く歌い続ければ誰でも高音が出るという練習法ではありません。

その声は、KISSの中で担う人物像とも結びつきます。
1976年の「Destroyer」で、ボブ・エズリンはポールを恋愛を歌う中心人物として捉えていました。
ポールが書いた「God of Thunder」をジーン・シモンズに歌わせたのも、二人の役柄を考えた判断です。
ポールは驚き、傷ついたものの、後には適切な選択だったと認めています。
高音の持ち主という個性に加え、誰がどんな人物として歌うかが、バンドの声を形作っていました。

1976年、「Destroyer」ツアーでのポール・スタンレー(撮影:NESR)
1976年、「Destroyer」ツアーでのポール・スタンレー(撮影:NESR)。
画像出典:画像掲載元/CC BY-SA 2.0
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「Crazy Nights」で選び取った高さ

1987年の「Crazy Nights」では、高いキーへのこだわりがさらに具体的に見えます。
制作したロン・ネヴィソンは、何曲かを半音ほど下げたほうが歌いやすいと考えていました。
それでもポールは、書いた時点の高いキーを望み、録音もその方向で進めました。
制作側に無理に歌わされたのではなく、本人が欲しい高さを選んでいたのです。

ネヴィソンが振り返る「Crazy Crazy Nights」には、途中でキーを上げる展開もあります。
録音を重ねて高い音へ届かせる仕事を、彼は評価していました。
この時期のポールにとって、高音は曲を押し上げる大切な見せ場だったのでしょう。
ただし、歌える高さと、長く歌い続けやすい高さは同じとは限らない。
制作担当者との意見の違いには、その二つが表れています。

1999年、違う呼吸で役を生きる

次の大きな挑戦は、1999年にトロントで主演したミュージカル「オペラ座の怪人」でした。
ポールは公演に向け、歌唱指導を受けながら必要な呼吸の扱いを学びます。
歌い方と演技を一緒に身につける稽古は、本人が非常に厳しかったと振り返る仕事でした。
ロックの舞台経験が長くても、そのまま全てを持ち込める役ではなかったのです。

観劇したジーンは、ポールの歌い方に驚いたといいます。
声量や高さで客席をつかむ人が、物語の人物として声を使う。
歌手としての可能性が、別の舞台で見えるようになった出来事でした。

当時からポールは、自分をロックだけに限定していませんでした。
ロックを歌うのは選択であり、調整をすれば別の役にも挑めると説明しています。
KISSで積み上げた自信を捨てるのではなく、その声を違う条件で働かせようとしていたのです。

ソロで広げた表現と、変わっていく声の実感

2006年のソロ作「Live to Win」では、自分の暮らしや人との関係を題材にしました。
曲ごとに適した演奏家を選び、バンドの決まった編成に合わせる必要のない制作に取り組みます。
歌う自分を含めて、一曲ずつ最も合う形を探せる自由がありました。
「Live to Win」の前進する意志も、愛情を扱う曲も、スターの姿だけではない本人へ近づくための歌だったのです。

ただし後年には、この作品で普段の自分を避けようとしすぎたと振り返りました。
もっと音楽的な根に沿ってもよかった、という反省です。

一方、声そのものをめぐる問題もありました。
2011年に声帯の手術を受けた頃、ポールは、以前は楽にできたことへ次第に努力が必要になり、声がひっくり返ることに驚いたと話しています。
公演を重ね、十分な回復時間を取れないことについても本人が語っていました。
ただし、この発言だけから、特定の歌い方が後年の声の変化を全て引き起こしたとはいえません。

2020年には、20年、30年、40年前と同じ声ではないことを、さらに率直に認めています。
長い年月の後も同じ身体能力を示すのは難しいという考えを、アスリートになぞらえて説明しました。
若い時の録音を基準に、全ての公演へ同じ再現を求めることには距離を置いていたのです。
高い声を出せた過去を否定するのでも、変化がないと言い張るのでもない。
現在の自分を引き受けたうえで舞台に立つ、という認識が見えます。

Soul Stationで前へ出た、もともと持っていた声

Soul Stationは、2015年にロサンゼルスのロキシーで最初の一般向け公演を行いました。
「Get Ready」などでファルセットを使い、「Ooo Baby Baby」の冒頭では仲間の歌手とアカペラを披露しています。
ギターや派手な舞台装置を前面に置かず、複数の声とソウルの曲を中心にした公演です。
ポールが別の声の表情を、まとまった舞台として見せたことに意味がありました。

ソウルは、晩年になって初めて触れた音楽ではありません。
若い頃にオーティス・レディングやソロモン・バークを見た経験を、本人は音楽の土台として挙げています。
2021年の「Now and Then」へ向けても、別人への変身を目指したのではなく、大切にしてきた歌を自分たちで鳴らすことが中心でした。
KISSで知られた人が、それ以前から持っていた好みを広く示すようになったのです。

ファルセットについても、ポールは以前から持っていた声だと説明しています。
KISSの「I Was Made for Lovin' You」の中間部や、「オペラ座の怪人」でも使っていた声です。
Soul Stationの登場を、失った高音の代わりに新しい声を発明した出来事として捉えると、このつながりを見落としてしまいます。

Soul Stationの仲間とポール・スタンレー、2021年の取材掲載写真(撮影:Oliver Halfin)
Soul Stationの仲間とポール・スタンレー、2021年の取材掲載写真(撮影:Oliver Halfin)。
画像出典:画像掲載元

音を出せることから、歌に必要なことへ

Soul Stationでポールが重視したのは、メロディーと感情を尊重することでした。
KISSでは、出せる音そのものに夢中になった時期もあったと振り返っています。
今は曲の良さを消すほど技巧を見せたり、情熱を完璧さで置き換えたりしたくない。
高い音へ届くことを喜んだ若い頃から、歌の中でその音が何を伝えるかへ、関心の置き方が変わっています。

2023年にKISSの大規模な最終ツアーが終わっても、歌う活動全てが終わったわけではありません。
2025年のラスベガスのイベントでは、メイクを外したアコースティックとエレクトリックの公演を行っています。
長いツアーを終えることと、歌を届ける場を失うことは別なのです。

ポールの歩みには、声の状態の変化と、歌手としての選択の変化が重なっています。
高音を追う姿も、物語を演じる姿も、ソウルを仲間と歌う姿も、一つを消して次へ進んだわけではありません。
それぞれの声が曲の中で何をするのかは、ポール・スタンレーの歌い方で詳しく見ていきます。

アイキャッチ:1992年のポール・スタンレー(撮影:Tilly antoine)/画像掲載元/CC BY-SA 4.0
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