Coccoの歌は、声の強さに圧倒されて終わりません。
歌詞に出てきた人や風景まで、聴いたあとに残ります。
映画監督の塚本晋也も、デビュー当時のCoccoを見て、歌う姿とともに「歌詞の内容がはっきり聞こえた」ことに驚いた一人でした。
その言葉は、Coccoの歌い方を考えるうえで大切です。
声を大きくするだけなら、言葉が伝わるとは限りません。
彼女の歌では、激しさも優しさも、歌詞に書かれた出来事を近くに感じさせます。
しかも本人は、自分が歌った曲の意味を、あとになって知ることがあると話しています。
1998年の「Raining」は、塚本が強く心に留めた曲でもありました。
歌手の存在感に引き込まれながら、同時に歌の中の出来事を追ってしまう。
その二つが重なるところに、Coccoの歌の面白さがあります。
「すごい声だった」の先に、言葉が残る
塚本はCoccoの歌について、詩の鮮明さと世界観に心を動かされたと語っています。
やがて自分の映画の登場人物にも、彼女の歌から受けた印象を取り入れました。
歌声の迫力だけでなく、そこから想像した人物像までが、映画作りにつながったのです。
これは、発音が明瞭だという話だけではありません。
言葉を聞き取れたうえで、その言葉が描く場面に引き込まれること。
「Raining」のように、過去の出来事をたどっていく曲では、その働きが大きくなります。
聴き手が物語を追えるから、歌の中の明るさも痛みも、自分に関わるものとして感じられるのでしょう。
ライブの感想にも、声量以外のところを聴いている人の言葉が見つかります。
2011年のMONSTER baSHを見た個人ブログには、「Raining」の言葉が丁寧に歌われ、バンドの音とともに情景を作っていたという感想がありました。
2023年の中野サンプラザ公演を記した別のブログでも、同じ曲から、以前より深く歌詞の景色を感じたと述べられています。
もちろん、これはそれぞれの聴き手の受け止め方です。
ただ、強烈な歌手として記憶されるCoccoが、言葉をじっくり聴きたくなる歌手でもあることが伝わってきます。
激しく歌う曲と、優しく歌う曲が隣り合う

2017年の日本武道館公演「一の巻」は、そんな表現の幅が一晩に詰まったライブでした。
初期の制作を支えた根岸孝旨らが集まり、「カウントダウン」から幕を開けています。
当日のライブレポートでは、冒頭の曲々を全身で激しく歌う姿に続き、「やわらかな傷跡」で優しい声へと空気が変わったことが記されています。
中盤の「Raining」にはアコースティックギターが寄り添い、終盤には「焼け野が原」が力強く歌われました。
さらに「風化風葬」では、静かな歌唱へと移っていきます。
一つの声色や一つの勢いで押し通す公演ではありません。
荒々しい歌のあとに柔らかな声を聴くと、その柔らかさに気づきやすくなる。
静かな歌を経てから大きく声が広がれば、その力も違って感じられます。
Coccoの強さは、強く歌い続けることだけでできているわけではないのです。
これほど表情の違う歌を歌うとき、本人の気持ちも曲と一緒に変わっているのでしょうか。
Coccoは、自分の感情と歌の関係について、意外なことを話していました。
怒っているときにも、優しい歌が出てくる

2013年、Coccoは、ひどく怒っているときでも、とても優しい歌を歌えることがあると語っています。
いま自分が感じていることと、生まれてくる歌の内容が、必ずしも一致しないというのです。
激しい曲を歌っているから、本人もいま怒っている。
悲しい曲だから、そのときの気持ちをそのまま告白している。
そう考えたくなるほど歌が切実でも、本人の説明はもっと複雑です。
先に歌があり、あとから自分で意味に気づくこともある。
これは、歌に気持ちが入っていないという話ではありません。
聴き手が受け取った悲しさや優しさを、そのまま歌手の私生活の説明に置き換えなくてもよい、ということです。
歌の人物が感じていることと、歌う人がその日に感じていることを、いったん分けてみる。
そうすると、Coccoの歌を本人の告白としてだけでなく、一つの物語としても聴けます。
塚本が彼女の歌から映画の人物像を思い描いたことも、ここでつながってきます。
歌うCoccoに目を奪われながら、歌詞の中の別の人物のことも考えてしまう。
その両方が起こるほど、言葉が鮮明に届いていたのでしょう。
頭の中にある歌を、バンドと一緒に形にする
その世界は、歌詞を書き、あとから旋律を付けるという順番で生まれるとは限りません。
Coccoの場合、言葉と旋律が一緒に出てくるといいます。
2016年の『アダンバレエ』をめぐる話では、頭の中に歌詞も演奏もあり、シンバルが鳴る場所まで決まっていると説明していました。
ただし、譜面を書いてミュージシャンに渡す方法ではない。
こんなふうに弾いてほしいと伝え、バンドと一緒に音にしていきます。
このアルバムでは、鍵盤にシールを貼って、伝えたい音をピアノで示すことにも挑戦しました。
自然に出てくる歌でも、録音になるまでには、他の人に伝える作業がある。
本人が伴奏まで思い描いていると知ると、声の勢いだけでなく、周りで鳴っている音にも耳を向けたくなります。
武道館で「Raining」にアコースティックギターが寄り添っていたのも、歌声を取り巻く音の一つの形です。
強いバンドの音を背負うCoccoと、少ない音の中で言葉を歌うCocco。
どちらかだけを選ばずに聴くと、同じ歌手の優しさと激しさを、よりよく味わえます。
「またこの曲か」を、踊りが変えた
歌の聴こえ方は、作った本人にとってさえ、固定されたものではありません。
1997年に発表した「強く儚い者たち」には、それがよく分かる出来事があります。
新しいアルバムを出しても、取材や番組で求められるのは代表曲。
Coccoはこの曲が好きでありながら、ほかにも歌いたい曲があるという気持ちを抱えていました。
そんなとき、ダンサーの重下真由が「強く儚い者たち」で踊る投稿を見つけます。
自分には長い付き合いの歌でも、別の人の身体を通すと、まだ見たことのない表現になる。
その喜びからCoccoは、25周年の新しいMVを提案しました。
このダンスを見られるなら、何度でも歌えそうだと感じたのです。
2022年の25周年版MVには、重下をはじめとするダンサーたちが参加しています。
聴き手には、ずっと大切にしてきた一曲。
歌い手には、好きだけれど少し距離を置きたいほど、何度も求められてきた一曲。
聴き手にとって大切な代表曲を、本人も新しい楽しみとともに歌えるようになった。
踊りとの出会いは、歌い慣れた曲に向かう気持ちを変える出来事だったのです。
Coccoの歌は、強い声で感情をぶつける、という一言では語り尽くせません。
言葉から人物や風景を想像させ、曲によって優しさと激しさを行き来する。
歌った本人も、聴く人や一緒に表現する人との出会いを通じて、その曲の魅力を知り直していく。
「Raining」の物語を追い、「強く儚い者たち」の新しい踊りを見ると、長く聴いてきた歌にも、まだ気づいていない表情があるように思えてきます。






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