「恋するカレン」の一節では、文字なら二度続くはずの「あ」が、歌では一つにつながるように扱われています。
長く大滝詠一と親交のあった萩原健太が挙げた例です。
あれほど柔らかく聞こえる歌の中で、言葉をそのまま丁寧に発音する以外の選択をしていた。
そこに大滝の面白さがあります。
声を張らずに歌えば、同じように聞こえるわけではありません。
どの音を残し、どこを軽く通し、歌詞の人物をどう声にするか。
大滝は、その小さな選択を積み重ねていました。
歌声が時代とともにどう変わったかは大滝詠一の歌声の変遷でたどり、ここでは一つの歌の中にある工夫を見ていきます。
「恋するカレン」で母音をつなぐ
日本語を文字で読むとき、私たちは書かれた音を一つずつ追えます。
しかし、歌では言葉の終わりと次の言葉の始まりが隣り合い、同じ母音が続くことがあります。
両方をはっきり発音すると、旋律の流れがそこで一度止まるかもしれません。
萩原によれば、大滝は1970年代から歌詞をローマ字に置き換え、意味だけでなく音の並びとしても考えていました。
萩原が挙げた「恋するカレン」の例では、前の言葉の末尾にある「あ」と、次の言葉の頭にある「あ」を、独立した二音として歌わない。
後ろの「あ」を省いたような形でも、前の母音が残るので、言葉として届くという考え方です。
これは日本語をいい加減にしているのではありません。
歌詞の意味を通しながら、音をメロディーに乗せ直しているのです。
同じ言葉を普通に読んだときと歌になったときでは、音の境目が違う。
その差を知ると、大滝の滑らかさが、声質だけでは説明できないことに気づきます。

出典:音楽ナタリー
柔らかい声にも、濃淡がある
大滝の歌は、しばしばクルーナーと呼ばれます。
近くで語りかけるように、無理に声を張らない歌を思い浮かべると分かりやすいでしょう。
ただし、一定の小さな声で最初から最後まで歌う、という意味ではありません。
伊藤銀次は、はっぴいえんどの「朝」を初めて聴いたとき、フレーズの濃淡に驚いたと振り返っています。
口の開き方や力の入れ具合で、日本語の響きが細かく変わっていたというのです。
伊藤が耳を引かれたのは、単なる「美声」ではなく、同じ声の中で言葉の重さを変えられることでした。
その細かな力加減と、「恋するカレン」の母音の処理は、別々の技巧には見えても、つながっています。
歌詞の一音一音を同じ強さで並べないこと。
言葉を聞き取れる形で残しながら、旋律の中で動かすことです。
柔らかい歌が平板にならない理由は、声量の大きさより、この扱い方にあるのでしょう。
「ゆうがたフレンド」で確かめられた低い声の豊かさ
低い声そのものの魅力については、鈴木慶一の証言があります。
2023年に発表された「ゆうがたフレンド(USEFUL SONG)」で、鈴木は大滝が残した録音に自分の声を重ねました。
二人が同じ日に歌った録音ではありません。
過去の大滝の歌を受け取り、そこへ新たに歌を入れた共演です。
鈴木は、一曲を二人でずっと一緒に歌うと声が似ていて区別しにくくなると考え、一番を大滝、二番を自分が担当したと説明しています。
そのうえで、改めて実感したのが、大滝の低いところから出てくる声の豊かさでした。
単に低い音へ届くという評価ではなく、同じ曲に参加して感じた声の存在感を語っています。
「ゆうがたフレンド」は、曲調やテンポが次々に変わる構成でもあります。
柔らかな低音の持ち主という印象だけでなく、その声が展開の多い曲でどう働くかを追うと、大滝の違う顔が見えてきます。
低さを強調するために一様に重く歌うことと、低い声の持ち味を曲の中で生かすことは、分けて考えたいところです。
物語を演じるときも、言葉は固くならない
『A LONG VACATION』の歌について、大滝は松本隆が書いた世界を自分が演じたから、真剣に歌えたと話しています。
自分で同じような詞を書いていたら、そこまでまじめには歌えなかったとも言いました。

出典:文藝春秋「本の話」
この発言を、声を作って別人になることだと考える必要はありません。
曲に描かれた景色や恋の場面を受け取り、その役として言葉を口にできた、ということです。
一方で、発音は台詞を一字ずつ読むようにはしない。
「恋するカレン」のように母音をつなげ、歌の時間に合う形へ変える。
物語に入る真剣さと、言葉を崩す自由さが、同じ歌にあります。
ただし、詞を受け取る立場に徹していた、とまで考えると話は単純になりすぎます。
同じ1981年の取材では、「FUN×4」について、曲の考え方を自分から伝え、松本が場面を作り、さらに歌詞の一部を自分で変えたとも説明していました。
他人の世界を演じる歌と、自分も言葉の成立に関わる歌が、一枚のアルバムに入っています。
また、アルバムのきらびやかな印象を聞かれた大滝は、吉田保によるミキシングにも話を向けています。
聴こえている明るさを、すべて声の出し方だけで説明することはできません。
声の強弱や言葉のつなぎ方と、その声を包む録音の響き。
両方が重なって、私たちの知る一曲になっています。
大滝の歌を、ただ低く甘い声として聴き流すと、肝心な部分が抜けてしまいます。
詞の意味を受け取ったうえで、どの音をそのまま置き、どの音をつなげるのか。
本人がそこまで考えていたという話が、歌の聞こえ方を変えてくれます。
歌って見せることが、鈴木雅之への説明になった
大滝の歌の運び方を、近くで聴いて学んだ人がいます。
鈴木雅之です。
1983年、ラッツ&スターの『ソウル・ヴァケイション』を大滝がプロデュースしたとき、鈴木は提供曲の仮歌を何度もウォークマンで聴きました。
鈴木によれば、大滝は「ああ歌え、こう歌え」と言葉で細かく指示する人ではありませんでした。
仮歌を繰り返し聴き、自分の歌にしていく。
そのテイクが、後の歌手としての道しるべになったと話しています。
譜面には音の高さや長さを書けます。
でも、どの言葉へ少し体重をかけ、どこを軽くつなぐかは、実際の歌から伝わる部分も大きい。
鈴木が頼りにしたのが説明書ではなく、大滝自身の声だったことは、その歌い方に選択が詰まっていた証しです。
柔らかな声、言葉の濃淡、母音をつなぐ工夫、歌詞の人物を演じる姿勢。
どれか一つだけなら、大滝詠一らしさには届きません。
「恋するカレン」を聴いたあと普通の話し言葉へ戻ってみると、あの歌では言葉の境目がどれほど動いていたか、改めて見えてきます。







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