寺尾聰の歌い方|低い声を張り上げずに、歌の存在感を生む仕組み

寺尾聰(2025年の取材記事に掲載) シンガー
寺尾聰(2025年の取材記事に掲載)

寺尾聰の歌を「低くて渋い声」と説明するのは簡単です。
けれども、声を低くすれば「ルビーの指環」のようになるわけではありません。
低い音域を中心に進む旋律、張り上げない歌唱、録音で作る声の厚み。
それらがバンドの動きと組み合わさって、あの存在感を生んでいます。
声の高さだけでなく、声をどのように音楽へ参加させるかに注目してみましょう。

低い声は、曲の一瞬ではなく土台になっている

「ルビーの指環」は、低い音を一度だけ印象的に出し、あとは高音で盛り上げる曲ではありません。
旋律の多くが低い音域に置かれています。
このため、見せ場の一音よりも、低い声を保ちながら言葉と旋律をつないでいく部分が、歌全体の印象を決めます。
終盤にキーが半音上がっても、高音へ駆け上がることを主役にした歌にはなりません。

『Reflections』の歌唱は、張り上げたり技巧を誇示したりせず、声の個性を残すものと評されています。
低さと抑えた出し方の組み合わせが、歌の輪郭になっています。

高音に余裕のある曲でも、低音が続くと歌いやすさは別です。
寺尾の表面上の落ち着きをまねる前に、この曲では低い声そのものが土台になっている、と捉える必要があります。

声の厚みを、声量だけで作っているわけではない

『Reflections』では、声を重ねるダブルの処理も特徴に挙げられています。
一本の声とは違う厚みには、録音の働きもあるのです。
その厚みまで、喉から一度に出している音と捉えると、歌唱と録音の役割を混同してしまいます。

一方、「Re-Cool 渚のカンパリソーダ」には、ゴスペラーズがバックコーラスで参加しています。
こちらは、寺尾自身の声を重ねることとは別の方法です。
主役の声のそばに、別の歌い手たちの声が加わることで、ボーカル全体の表情を作っています。
柔らかな厚みや華やかさを感じたとき、どこまでが主旋律の声で、どこからが重なった声なのかを分けると、寺尾の控えめな歌唱を捉えやすくなります。

歌は前に出るが、楽器の動きを止めない

寺尾は、自分を歌手というよりバンドマンとして捉えています。
ベースを弾きながら歌うとき、楽器と歌は別々の流れを持ち、それでも同じ曲の中にいなければならない。
その難しさと面白さを本人が語っています。
伴奏に声を合わせるだけの感覚とは違い、歌もベースも、それぞれの役割で曲を動かすという発想です。

「ルビーの指環」も、井上鑑がデモを聴いた段階で、跳ねる感じを面白いと受け止めた曲でした。
そのリズムの上に、力の抜けた寺尾の歌唱が乗る。
声自体をせわしく大きく動かさなくても、曲の側に運動があります。
落ち着いた声を静かな伴奏へ置く場合とは、歌と楽器の関係が違うのです。

「Re-Cool HABANA EXPRESS」などを含む再録でも、バンドのリズムの豊かさは重要な聴きどころになっています。
寺尾の歌を、声だけ取り出した見本として考えるより、動きのある音楽に居場所を持つ声として捉えるほうが、抑えた歌唱の意味が見えてきます。
音楽全体が十分に語っているとき、歌い手がすべてを大げさに説明する必要はないのです。

ラジオ番組出演時の寺尾聰(中央/2018年4月)
ラジオ番組出演時の寺尾聰(中央/2018年4月)。
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一曲の中で、一人の人物を演じる

作曲するとき、寺尾は映像や物語が浮かばない曲は残さないと話しています。
歌うことも、一曲の中の物語を演じることとして捉えています。
声の渋さを毎回同じように見せるのではなく、その歌の中で何が起きているかを持っている。
落ち着いた声の奥に場面が感じられる理由は、この音楽観にもあります。

だからといって、歌う言葉まですべて自分で決めたいわけではありません。
寺尾は、自分で自分の歌詞を書くのは照れくさく、自分のイメージと違う言葉が来るのもよいと話しています。
曲を作った自分の感情だけに閉じず、ほかの人が用意した言葉を受け取って演じる。
低い声の中に感じられる距離感を考えるとき、この、作り手と歌い手の間の余白も見逃せません。

『Reflections』が描く世界には、「HABANA EXPRESS」の街の情景も、「出航 SASURAI」が思わせる旅の景色もあります。
同じ歌い手の声なのに、曲を替えると別の場所が立ち上がる。
声の個性を残しながら、その声がいる場所を変えることが、寺尾の歌の楽しさです。
無理に一曲ごと別人の声を作らなくても、編曲や言葉との組み合わせで、表現の景色は変わります。

「Smile」と「Volare」――落ち着きだけでは終わらない

映画『父と僕の終わらない歌』で歌った「Smile」について、寺尾は、きちんと歌うことの難しさを認めています。
また、自分が惹かれるのは明るさの中に悲しみがあるような作品であり、観客を無理に泣かせようとはしたくないと話しています。
悲しい場面だから声で悲しさを強調し尽くす、という単純な選び方ではありません。
感情を押し付けすぎないことも、役として歌う際の姿勢に含まれていました。

寺尾聰と松坂慶子。映画『父と僕の終わらない歌』(2025年公開)の場面写真 ©2025「父と僕の終わらない歌」製作委員会
寺尾聰と松坂慶子。映画『父と僕の終わらない歌』(2025年公開)の場面写真 ©2025「父と僕の終わらない歌」製作委員会。
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この映画では、歌う人物と聴く人物の関係も、表現を形作っています。
松坂桃李は、ラストの場面で自分の感情があふれ、涙を止められなかったと振り返りました。
寺尾も、その芝居を高く評価しています。
声を一方的に披露するだけでは終わらず、相手の反応が場面に返ってくる。
共演する俳優の証言からも、歌が人と人との間で働いていたことがうかがえます。

対照的なのが、松坂桃李と車の中で歌う「Volare」です。
寺尾は、歌が得意ではないと言っていた松坂との歌唱が、とても楽しかったと振り返っています。
共演者と一緒に高揚する場面も、同じ映画の中にあるのです。
落ち着いて一人で語る印象だけを固定すると、相手と歌うことで表れる、この解放感がこぼれ落ちてしまいます。

渋い声を飾るより、その声が生きる関係を作る

寺尾聰の歌い方は、低い声という一つの性質だけでは説明し切れません。
張り上げない歌唱を、録音では声の重なりが支え、バンドではそれぞれの楽器の動きが支えます。
そして歌い手自身は、一曲を一人の人物の物語として捉える。
声をどれほど派手に変えられるかより、その声のままで、音楽や相手との関係をどれだけ豊かに作れるか。
そこに、静かな存在感を持つ寺尾の歌の面白さがあります。

再録や映画で声の使い道がどう広がったかは、寺尾聰の歌声の変遷へ続きます。

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