小室等の歌声はどう変わった?米国フォークの模倣から80歳の「lovesong」まで

小室等の歌声の変遷 シンガー

小室等さんの歌声は、若い頃の勢いを保つ方向だけに変化したのではありません。
キングストン・トリオやPPMをコピーした青年が、日本語の詩と出会い、他人の言葉を運ぶ歌手になり、80歳で自分と妻の実話を歌うまでに変わりました。

その歩みを最も鮮やかに示すのが、27歳と80歳の声を一曲で重ねた『雨が空から降れば-いまむかし-』です。
半世紀以上の隔たりが、優劣ではなく、一人の歌手が言葉と過ごした時間として聞こえてきます。

1960年代|出発点は「日本のフォーク」ではなく米国のコピーだった

高校時代の小室さんが夢中になったのは、キングストン・トリオでした。
まだギターを弾けないうちから歌をまね、後にはPPMのコピーも始めています。

当時は「フォーク」という言葉自体が日本で広く定着する前です。
新しい音楽を作ろうとしたというより、遠くから届いた格好いい音を、まず体へ入れるところから始まりました。

模倣は悪い出発ではありません。
三声のハーモニー、アコースティックギター、物語を運ぶ歌。その型を徹底して覚えた経験が、後の六文銭を支えます。

しかし、型をうまく再現できるほど、別の疑問も大きくなりました。
米国で生まれた歌を日本人が同じように歌うだけで、自分の音楽と言えるのか。1970年代初め、小室さんはその危機にぶつかります。

1968〜1972年|六文銭と詩人の言葉が、歌う声の向きを変えた

1970年代の舞台で歌う小室等

1968年に六文銭を結成した頃から、演劇や詩との接点が歌の中へ入ってきます。
グループはもともと舞台のための音楽を演奏する場から始まり、決まった形の歌謡曲とは違う言葉を扱いました。

転機になったのは、日本語の詩を外国の旋律へ飾るのではなく、詩そのものから音楽を起こす発想です。
武満徹との対話や谷川俊太郎との出会いを通じて、「日本人が西洋音楽をする意味」という問いが、作品作りへ変わっていきました。

『雨が空から降れば』は、その変化を代表する歌です。
黒田三郎の詩を、決まったサビへ急いで運ばず、街の景色と言葉の間を残したまま歌にしました。

1971年に披露された『出発の歌』では、上條恒彦の大きく響く声と六文銭が組み合わされました。
小室さん自身は、上條さんの歌を初めて聞いた時、その声の大きさに驚いたと振り返っています。

ここが面白いところです。
自分と同じ声を主役にせず、曲が必要とする声を見つけて作品を成立させた。歌手としての変化は、自分の声を強く見せることではなく、声の役割を考える方向へ進みました。

1970年代後半|ソロの声は、完成度より発想が先に走った

六文銭の活動を経てソロへ進んだ小室さんは、録音について、当時は演奏も歌も未熟で、発想に技術が追いついていなかったと率直に語っています。
きれいに仕上げるだけでは届かないものを、街の音を組み合わせるなど別の方法で作品にしました。

1977年のライブ版『12階建てのバス』には、その時代の実験精神が残っています。
後年の穏やかな語りだけを知っていると、小室さんが最初から完成した老成の声だったように思えますが、若い時期には音と言葉の置き場所を探す荒さもありました。

同じ頃、レコード制作の主導権を演奏者側へ取り戻したいという思いも強まります。
1975年には井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげるとフォーライフ・レコードを設立しました。

この出来事は経営史であると同時に、歌声の背景でもあります。
何を歌うかだけでなく、どの形で録音し、誰へ届けるかまで引き受ける。その責任が、声を作品全体の一部として考える姿勢を深めました。

1980〜2000年代|歌手の外へ広がり、声は「案内役」になった

1980年代以降、小室さんは自分のアルバムだけに閉じませんでした。
映画、ドラマ、舞台の音楽、テレビやラジオの聞き手、他分野の表現者との共同作業へ活動を広げます。

普通なら、歌から離れた時期と見えるかもしれません。
実際には、人の話を聞き、作品の背景を言葉で伝える時間が、歌の語り口へ戻ってきました。

自分を「歌う行商人」と呼び、聞き手が少なくても自分にしかできない演奏を各地へ運びたいと語っています。
大きな会場で一度に圧倒するより、目の前の人へ歌を手渡す。その場数が、歌声を主張の道具から案内役へ変えました。

なぎら健壱さんの歌唱変遷にも、テレビや執筆へ活動を広げながらライブを切らさなかった流れがあります。
小室さんの場合はさらに、詩人、作曲家、俳優の間を行き来し、声の中へ異なる言葉の速度を持ち帰った点が特徴です。

2010年代|若い頃より優しい歌へ、ただし言葉の輪郭は消えなかった

後年の小室さんについて、谷川俊太郎は若い頃より歌が優しくなり、人生経験が歌を育てたという趣旨の評価を残しています。
声量や音域の維持ではなく、年齢が歌へ加えた質を見ている言葉です。

『プロテストソング2』では、社会への問いを大声で断定せず、静かな会話のように差し出しました。
穏やかになった声は、問題を薄めたのではありません。聞き手が考える余地を増やしたのです。

六文銭の活動も新しい仲間と続きました。
本人は若い演奏者に支えられる編成を笑いに変えながら、過去の再現だけではない現在のバンドとして歌っています。

若い頃には発想へ技術が追いつかない焦りがありました。
この時期には、全部を自分で鳴らさなくても作品を人に渡せる余裕が生まれます。

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2024年|80歳の「lovesong」で、他人の詩から自分の実話へ戻った

80歳で発表したアルバム「lovesong」

2024年、小室さんは7年ぶりのオリジナルアルバム『lovesong』を発表しました。
全11曲を80歳で新たに録音し、過去の歌、自作曲、三つの新曲を一つの作品へまとめています。

中心にある愛は、若い男女の恋だけではありません。
家族、友人、失った人、長く一緒に仕事をした詩人、自分が生きてきた時間まで含む、人間への愛です。

冒頭の『雨が空から降れば-いまむかし-』では、27歳の録音と80歳の声が同じ曲で重なります。
若い声を塗り替えず、現在の声を老いの証明にもせず、二つの時間を並べました。

詳しい歌い方の特徴は、小室等さんの歌い方・歌唱力で、詩、声、ギターの関係から説明しています。

「銀座ヤマハのラブソング」で、運んできた言葉が自分の暮らしになった

アルバム終盤の『銀座ヤマハのラブソング』は、小室さんと妻の出会いを基にした曲です。
妻は銀座ヤマハで、当時まだ十分に扱われていなかったフォークの楽譜を置くべきだと働きかけていました。
そこへ小室さんが通うようになり、二人の時間が始まります。

他人の詩へ曲を付け、それを各地へ運ぶことから歌手人生を作った人が、80代で自分の生活を歌いました。
ただし、急に告白口調へ変わったわけではありません。
個人的な思い出を説明しすぎず、銀座の店と二人の仕事を置くことで、聞き手にも自分の出会いを重ねられる歌にしています。

小室さんが最後に自分だけの物語へ閉じたのではない点が、この変遷の結論です。
長く他人の言葉を尊重してきたからこそ、自分の実話もまた、誰かへ手渡せる言葉へ変えられました。

小室等の歌唱変遷は、うまい模倣を捨てて自分の言葉へ戻る旅

1960年代、音楽の入口は米国フォークのコピーでした。
1968年以降は六文銭と演劇、日本語の詩との出会いによって、声の向きが自分から言葉へ変わります。

1970年代には荒さを抱えながら録音の方法まで探り、1980年代以降は歌手、聞き手、作曲家、案内役の境界を越えました。
2010年代には若い頃より優しい歌になり、80歳の『lovesong』で若い自分の声と現在を同じ作品へ収めています。

変わらなかったのは、歌を完成品として飾らず、人へ運ぶ姿勢です。
変わったのは、運ぶ言葉の中に自分の人生まで含められるようになったことでした。

岡林信康さんの歌唱変遷も、米国由来のフォークを出発点に、自分の足元のリズムへ向かった歩みです。続けて読むと、同じ時代に「日本の歌」を探した二人が、まったく違う答えへ進んだことが分かります。

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