ケイト・ブッシュは2011年、過去の曲を歌い直す途中で、何度か制作を諦めかけたと話しています。
昔の自作なのに、簡単には歌の中へ戻れない。
そこで助けになったのが、多くの曲のキーを少し下げることでした。自分の声が以前より低くなっていることに、曲の側を合わせたのです。
こうして作った『Director’s Cut』は、昔の歌声を再現するためのアルバムにはなりませんでした。
伴奏も歌の構成も見直し、その時点の自分が作りたい録音にしています。
とくに変化が分かりやすいのが、サビの言葉まで取り払った「Moments of Pleasure」です。
2011年の再録では、歌わなくなった部分にも、新しい意味を持たせています。
1993年の曲を、2011年には同じ形で歌わなかった
「Moments of Pleasure」は、1993年の『The Red Shoes』に収められた曲です。
他人の役柄や架空の物語を歌うことも多いケイトですが、この曲については自伝的な内容があると認めています。
身近な人たちや、共に過ごした時間を思い出す歌でした。
1993年版では、思い出をたどる部分からサビまで、ケイト本人が言葉を歌っています。
2011年の再録では、そのサビの言葉がなくなりました。
同じ曲を選びながら、歌う部分と歌わない部分を変えているのです。
『Director’s Cut』で取り上げたのは、『The Sensual World』と『The Red Shoes』から選んだ曲でした。
良い演奏は残しながら、歌や楽器の一部を録り直す。
原曲を丸ごと否定して作り替えるのではなく、残したいところと変えたいところを選ぶ企画です。
ただし、昔のキーのままでは、その作業を続けにくかった。
キーを下げたことで歌い直せるようになった、という本人の説明は、声の変化を知る具体的な手がかりです。
さらに彼女は、編曲にも手を入れました。昔と同じ声が出るかを試すだけでは、再録の目的にならなかったのです。
サビの言葉を、聴く人に思い浮かべてもらう
「Moments of Pleasure」の再録でケイトがしたのは、ピアノを中心に曲を簡素にし、サビの歌詞を外すことでした。
代わりに、合唱がその旋律をハミングしています。
彼女は、聴く人が言葉を想像する形にしたかったと説明しています。
原曲を知っている人なら、歌われなくなった言葉を、自分の記憶で補うかもしれません。
知らない人には、声はあるのに、具体的な言葉としては聞き取れない部分が残る。
これは、声を小さくするのとも、高音を避けるのとも違う変更です。
何を歌って伝え、何を聴く側に残すかという、曲全体の判断でした。
ケイトは、サビの部分を変えたことで、以前より物語を語るような曲になったとも振り返っています。
歌の途中で同じ言葉へ戻る形を弱めると、思い出を一つずつたどる流れが前に出る。
若いころの声をそのまま取り戻さなくても、思い出の歌を別の形で語ることはできました。
この再録を聴き比べるとき、声が低くなったという感想だけでは、変更の大部分がこぼれ落ちます。
キーの調整に加えて、伴奏を減らし、本人が歌う言葉まで選び直しているからです。
同じ曲を使って、歌い手としても制作者としても、別の表現を試していました。

高い声は、別の登場人物に託せる
同じ2011年に発表した新作『50 Words for Snow』では、低い声を生かす方法が、別の方向へ広がっています。
「Snowflake」の高い声を歌うのは、ケイト本人ではなく、息子のバーティーです。
彼女は、当時の彼の澄んだ高い声を念頭に、この曲を書きました。
子どもの声は、成長すれば変わっていきます。
ケイトは、その短い期間だけの声と、すぐに消えてしまう雪のひとひらを重ねていました。
親子で共演するために、既にある曲を後から割り振っただけではありません。
その時期の声で歌うこと自体が、曲の着想に関わっていたのです。
続く「Lake Tahoe」についても、男性たちの高い声に対し、自分は低い声で物語を続ける配置を楽しんだと話しています。
高い声が必要な場面をすべて自分で引き受ける代わりに、声の違う歌い手を組み合わせる。
初期の高音を知る人には、ケイトが低い声のほうを担当している点も興味深いところです。
ケイトの声だけを取り出せば、昔より低いという変化に見えます。
しかし、曲全体では高い声が消えていません。
誰が高い声を歌い、誰が低い声で続けるかを変えることで、登場人物の違いを作っていました。
落ち着いた声でも、人物を演じることは続く
2014年の公演『Before the Dawn』でも、ケイトが大切にしていたのは、曲ごとの人物を表すことでした。
公演を振り返った彼女は、集中を保ち、歌の中の人物を伝えようとしていたと説明しています。
とくに冒頭のセットは、一曲ごとに違う世界へ移るため、演じるのが難しかったそうです。
声が落ち着いたから、劇的な表現をやめたわけではありません。
「Wuthering Heights」のころからあった、登場人物に合わせて声を考える発想は続いています。
その初期の高音と役柄の関係は、ケイト・ブッシュの歌い方で詳しく扱っています。
『Director’s Cut』では、今の声で歌えるキーに直し、昔の曲の構成を変える。
『50 Words for Snow』では、高い声を別の歌い手に任せ、自分の低い声と組み合わせる。
どちらも、以前の声との違いを、制作の具体的な選択につなげた例でした。
1993年の「Moments of Pleasure」を好きな人が、2011年版を同じように好きになるとは限りません。
それでも二つを並べると、ケイトが単に昔の曲を歌えるか確かめたのではなく、今ならどう語りたいかを考えたことが分かります。
歌われなくなったサビまで含めて、その変化を聴ける曲なのです。
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