井上芳雄の声を思い浮かべると、ミュージカルの舞台で大きく伸びる歌が先に浮かぶかもしれません。
ところが2023年のアルバム『Greenville』では、その強さだけで曲をまとめていません。
「天使も悪魔も」では拍の取り方を試し、「Lost In The Night」では少しささやくように、「ライフ」ではディナーショーで発揮してきた勢いを生かし、「あなたに贈る海風」では息を継ぐ場所から考えています。
四つとも同じ歌手の、同じアルバムの歌です。
井上はなぜ、一つの「井上芳雄らしい声」にそろえなかったのでしょう。
録音で本人と制作者が選んだことを追うと、曲に合う声は声量だけで決まらないと分かります。
「Lost In The Night」は、歌い切った後で録り直した
「Lost In The Night」は、Michael Kanekoが英語詞を手がけ、mabanuaが作曲・編曲した曲です。
井上にとっては、普段のミュージカルナンバーと異なる感触がありました。
本人が難しかったと挙げたのは、初めて歌う英語詞を運ぶ速さ、音域の広さ、独特のビートが重なっていたことです。
英語の曲を歌う経験そのものはありましたが、このジャンルは普段カバーにもほとんど選んでいませんでした。
高い音まで出せれば解決する、という一つの課題ではなかったのです。
最初の録音も、指示を受けて形にはなりました。
しかし本人には、何とか歌い切った力みが残っているように感じられ、自ら録り直しを申し出ました。
もう一度試したのは、少しささやくような歌い方です。
プロデューサーのコトリンゴは、その二度目の声が曲に合うと受け止めています。
ここで問題になったのは、井上に小さな声が出せるかどうかだけではありません。
難しい曲を正確に歌い終えることと、曲の空気をつかむことは別です。
声を張って押し通すより、歌い慣れた力の入れ方をいったん外すほうが、この曲には合った。
その判断が、録り直しに表れています。
コトリンゴによれば、作曲・編曲を手がけたmabanuaも、録った音の配置を細かく調整しました。
井上だけが独力で雰囲気を作るのではなく、制作者と一緒に、曲のリズムに合う一音を探したのです。
英語詞を正しく読むことから、声をどこに置くかまで。
「歌い直す」という短い言葉の中には、いくつもの判断が重なっていました。

撮影:大城為喜/出典:音楽ナタリー
「天使も悪魔も」は、拍の位置を変えてみる
歌い方が変わるのは、声を強くするか弱くするかだけではありません。
「天使も悪魔も」では、井上は拍を後ろで取ることに取り組みました。
本人によれば、ミュージカルではあまり経験しないリズムの取り方です。
普段の感覚より大きく後ろへ寄せてみると、コトリンゴからはそこまで遅らせなくてよい、と声がかかりました。
最初からちょうどよい位置を知っていたわけではありません。
いったん普段と違う場所で歌ってみて、二人で幅を調整したのです。
声そのものを別人のように変えようとしなくても、言葉を拍のどこに置くかで、曲との関わり方は変わります。
声の大きさを調整することと、拍のどこから言葉を始めるかを調整すること。
「天使も悪魔も」の試行錯誤は、歌の表情を変える方法が一つではないと示しています。
「ライフ」では、もともとの強さを生かした
同じ作品には「ライフ」も入っています。
コトリンゴは井上のディナーショーを見て、そのエネルギーを曲に生かしたいと考えました。
「Lost In The Night」のささやく声がうまくいったからといって、アルバム全体をその声で統一したわけではありません。
井上は「ミュージカル風」の曲になると聞き、聴き慣れた方向を思い浮かべました。
しかし、完成した曲は想像と違ったそうです。
コトリンゴは彼のために曲の展開を広げ、金管楽器も加えました。
音数が増える中で、歌が負けないことを見込んだ編曲です。
彼女は録音後、井上がその曲を歌いこなしたと語っています。
小さく歌うことを新しい正解にしたのではなく、曲によって力強さの出番も残したのです。
一方で、強い声さえあれば「ライフ」ができたわけでもありません。
制作者がディナーショーで見た井上の姿を曲へ持ち込み、井上は予想外の形になったその曲を歌う。
二人のやり取りが、声の使いどころを決めていきました。
「あなたに贈る海風」は、息を継ぐ場所を変えた
「あなたに贈る海風」は、清塚信也が作曲、寺尾紗穂が作詞し、コトリンゴが編曲したバラードです。
制作の中でテンポが大きく遅くなり、井上は息をどこで継ぐかを考え直すことになりました。
ゆっくりした曲は、一見すると歌いやすそうです。
けれど、同じ一節でも時間が延びれば、一息で保つ時間も長くなります。
井上には、言葉の途中で息を入れたくないという考えがありました。
それでも、この曲では制作者と相談しながら、区切る場所を試しています。
長く息を持たせる力があれば、必ずいい歌になるわけではありません。
息を継ぐと、言葉のまとまりや意味の聞こえ方も変わります。
どこまで一続きに伝え、どこで間を作るか。
「あなたに贈る海風」は、声量よりもその選び方が問われた曲でした。
井上は録音中、「おばあちゃんみたいに」と思って歌う方法も試したそうです。
コトリンゴには、その時の声が悲しすぎるように聞こえました。
息の場所だけでなく、言葉にどれほど感情を乗せるかも調整したのです。
最終形を一度で見つけたのではなく、別の解釈を試しては、曲に必要な表情へ近づけていきました。
声色を演じ分けるより、曲ごとの役に入る
曲ごとに声が違うと聞かれた井上自身は、意識して歌い分けたというより、それぞれ別の役を演じる感覚に近かったと説明しています。
先に声色の一覧を決めて曲へ当てはめたのではなく、受け取った曲に向き合う中で、歌う人としての立ち位置が変わっていったのでしょう。
また、彼にはコトリンゴや手嶌葵のささやくような声への憧れがありました。
それでもコトリンゴは、同じ歌唱法を教え込むより、井上のまま歌うことを勧めています。
こうしたやり取りを知ると、「Lost In The Night」の小さな声も、誰かの声を再現した到達点ではなく、井上がその曲のために見つけた表現として受け取れます。
一つの声を押し通さない
四曲を並べると、井上が何をそろえずに歌ったかが見えてきます。
「天使も悪魔も」では拍との距離を測り、「Lost In The Night」では力みを外し、「ライフ」では前へ出る勢いを使い、「あなたに贈る海風」では言葉と息の区切りを探す。
どれも、声を見せるためではなく、曲を届けるための選択です。
ミュージカルからコンサート、オリジナル曲へと歌う場を広げてきた流れは、井上芳雄の歌唱変遷で追えます。
このアルバムを聴くなら、音域の広さだけでなく、曲が変わるたびに井上がどこで声を前に出し、どこで引いたかにも注目できます。







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